8







烏吠が眠る蒼の部屋へすぐに向かうと、そこには侍女が一人付き添っていた。

とても心配そうな顔つきでいるものだから、烏吠は思わず駆け寄って尋ねた。

「悪いのか、どうした」

「烏吠様。いいえ、お悪くはありません、ですが魘されておいでで…お起こしした方がよろしいのか判断に困っておりました」

年嵩のその侍女は、額の汗を拭ってやりながらも困り果てた様子で烏吠を見た。

目をつぶり、汗をうっすらと浮かべながら、蒼は息も荒く苦しんでいた。恐らく少し熱が出ているのだろうが、

疲れと緊張からだろう。だから体調が急変したというわけではない。だが夢魔からは逃れられない。

それもひどい悪夢のようだった。

「う、う、は、」

一生懸命に烏吠の名を呼ぼうとする蒼の手を掴むと、烏吠は呼びかけた。

「なんだ、どうした。ここにいるぞ。目を開けてみてみろ」

しかし苦しそうに眉を寄せるだけで、起きる気配は全くない。烏吠は表情を硬くすると、

侍女に新しい湯と氷室の氷を持ってくるように言いつけた。膝に抱えあげると懐深く抱きしめて、繰り返し名を呼んだ。

「蒼、蒼、もういい、目を覚ませ、そこにいることはない。ここへ来い」

夢の中は別の世界だ。こっちへ導いてやるしかない。なんとか起こそうと頬を軽く叩いても、

揺さぶってもみるが、目は硬く閉じられたままだった。ついには口づけてみるも、やはり起きはしなかった。

「起きて、蒼、大丈夫だ、さあ、」

きっと景の夢なのだろう、やめて、やめて、と繰り返している。蒼の声はか細く、切なく響いた。


―私が手を下した時の夢か…?


烏吠がもう一度口づけようと顔を傾けると、かたり、と音がして佐塗が入ってきた。

「断わりもなく入るな」

烏吠が少し苛立って声を荒げたが、突然の客はちっとも意に介さずに口を開いた。

「かして、こちらに、ひめを」

あぐらをかいた佐塗は手を伸ばして蒼を寄越せと静かに繰り返した。

「何のためにだ、お前、」

「はやく、いいから」

そういうと無理やりに蒼の体を自分の膝に引きずり込み、蒼を抱えながら、獣の鼻先で蒼の耳へと何事か呟いた。

「いいこ、いいこ、あおのひめ、佐塗が一緒にいてやる、佐塗がここにいてやる」

歌うように軽く、しかししっかりとした声で甘やかすように言うと烏吠がしていたように優しく揺さぶった。

蒼の呼吸は荒さを鎮め、眉も緊張を解いた。しかしまだ目は閉じたままだ。

「いいこ、あおのひめ。佐塗とあおのひめで月を見よう、今夜の月は美しい、

母上が言っていたぞ、柳の葉も美しい。綺麗に鳴っている。あおのひめ、さあ佐塗を見て」

かすれたように小さな声でそう呟いて、獣の目元を頬ずりするように蒼の頬に押し付けると、蒼はやがて目を開いた。

「佐塗」

涙が静かに溢れて、獣の毛皮を濡らしていった。

「月を見るの、佐塗と一緒に、良かった、まだ帰らないでいてくれたの」

「そうだ、帰らないことにした」

佐塗はどうやら昔に戻ってしまっているらしい蒼に、そのまま言葉を返した。

泣きながら蒼は胸元の毛を掴むと、そこに顔を埋めて泣いた。

「帰らないで、ずっと。蒼の傍にいてよ」

「いる、ほんとうだ。かえらない、もう。緑卯に、この家にいるよ、あおのひめが好きだから傍にいよう」

大粒の涙は毛皮をどんどん濡らしていったが、佐塗はいとおしそうに蒼の頬を撫でるだけだった。

「うそ」

「佐塗は、うそをひめに言ったことはない、だからこれもほんとう、わかるだろう」

それを聞いて心底安心したのか、蒼はにこりと微笑むと今度は穏やかに眠りについた。

佐塗は眠ってしまった蒼を見ながら困ったように何度も瞬きをして、烏吠を見た。

「また、眠ってしまった」

「いや、いいだろう、寝かせよう、少し」

そんな佐塗の様子に少し毒気を抜かれたように笑うと、烏吠は静かに礼を言った。

「ありがとう。佐塗、お前が来てくれて良かったみたいだ」

佐塗は、はっとしたように蒼を烏吠の元へ返そうかと身動きしたが、烏吠が目で制した。

「いい、そのまま抱えてやってくれ、安心しているようだから」

烏吠は顔を埋めて眠る蒼の髪を払ってやった。涙が冷えて、烏吠の手を冷たくくすぐった。

「ひめは、よくうなされる子ども、だった」

佐塗はゆっくりと喋った。静かに、静かに。きっと起こさないようにしているのだろう。

巨体が小さな娘の為に声を潜める様は、烏吠にとっても微笑ましかった。

「そうか、昔から…。お前はよくこうしていたのだな、手慣れている」

「私の毛皮が、ひめには良いようだ。布団のようだから」

小さく笑うと烏吠は目を細めた。佐塗を求めて呼んだ蒼の声に、幼少のころを垣間見たような不思議な気分だった。

まるで、自分だけがその頃に飛んで見物しているかのような。

「かえらないで、といつも言った。すぐ、傍の家だったのに。でもそれが可愛くて、

ついつい月が出る時間までここにいたものだった。なつかしい、うつくしいときだった」

佐塗はそっと力を込めて蒼を抱き直すと、少しだけ微笑んだ。

「もう、いまはかえらないで、とは言ってくれる歳ではなくなったのかもしれない、

けれど、今度は佐塗が頼む番だ、傍にいさせて、と」

烏吠は、そうしてくれ、きっと喜ぶ、と言うと傍にあった水を飲んだ。侍女が静かに置いて行ったのだろう、

扉の外にはまだ相当暖かい湯と、布、それに厚い葉に包まれた氷が置いてあった。それを取ってくると、

湯に浸した布で蒼の手足を拭い、氷は小さく砕いて佐塗に渡して蒼の口に入れさせた。

少しずつでも水分を取らせなければならない。それが終わると佐塗に絹の大きな掛け布を渡して蒼の体を包ませた。

「烏吠とあおのひめ、夫婦に、なったのか」

佐塗が唐突に聞いてきて、烏吠は一瞬戸惑ったが、佐塗にはきっと分かっているのだろう。

隠さずに言うことにした。どうやら勘の鋭い獣のようだ。

「そうだな。だが、まだ、なのかもしれん。心は…めおとだがな」

「なぜ」

「もしかしたら命を落とすかもしれない。そんな時に自分の欲求だけが膨らんで優しくしてやれそうになかったからな」

「そうか」

なぜこんな話をこの佐塗にしているのか分からなかったが、烏吠は蒼の母親を前にしているような

気持ちになっていたのだった。隠し事はならない。そう思った。

「でも、他のやつらには言うなよ、みなには言っていないからな」

「いわない」

佐塗は不思議そうにしながら、当然だ、と頷いた。

「まあ、いいだろう、この話は。それより、少しの間でいい、そうしていてやってくれ。

私は退避の準備をしてくる。指示が必要だからな」

「わかった、私の代わりは遊和という者がいるから、その者に頼めば早い」

わかった、と烏吠は返事をして、部屋を出た。しばらくは、あの毛皮の暖かさに蒼を託したほうがいいのだろう。

おそらく、束の間の休息になる。自分にはそれを与えてやれるほどの余裕はまだあまりないのかもしれない、と

佐塗の落ち着いた声を聴いていて思った。佐塗の歳はどのくらいなのか。

話で聞いていた分には蒼と同じ歳くらいかと思っていたが、違うのか。しかし人とは違う容貌故によくわからない。

烏吠はあとで羽陽あたりにでも聞こうと考えた。どこか不安なのは、きっと醜い嫉妬なのだろう、と烏吠は苦い顔をした。

目を覚ますと、心地よい暖かさが全身を覆っていた。首を上げると、豊かな銀色の毛並みがゆっくりと上下していた。

自分の肩を朧気な視界の中でみつめると、銀の手が掛け布の上からしっかりと抱きかかえているのが見えた。

ふいに涙が込み上げて、震えた声で蒼は佐塗を呼んだ。

「佐塗」

少し眠っていたのか、佐塗はゆっくりと目を開いて、氷に琥珀を落としたような色の瞳で蒼を捉えた。

「おきた」

確認するように蒼を見て言うと、佐塗はまたしっかりと抱え直し、座り直した。首元の布をしっかり合わせると眉間で蒼の頬を撫でた。

「こわいゆめ見たから、辛かっただろう」

蒼はもう泣くのを抑えるのも諦めて精一杯甘えることにした。まるで幼い頃、佐塗の尻尾を掴んで離さなかった時のように。

「うん」

獣の瞳には素直にさせる力があるのだろうか。この瞳を見ていると、何も考えないで答えてしまう。

一緒にいたから、知ってる、見ていたよ、と繰り返し佐塗は囁いた。

「それでも、途中からは怖くなくなった。佐塗が来たから、きっと」

蒼はそう言って佐塗の膝の上に座り直すと、背中を伸ばして首に抱きついた。胸の中に空気が行き渡り、

幸せな心地だった。きっと、ずっと佐塗の首にこうしたかったのだろう。

佐塗は背中を撫でてやりながら、左右にゆっくりと体を揺らした。

「良かった、蒼」

珍しく蒼、と呼んだ佐塗は、少しあの日よりも大きく見える。本当に、これほどの体格の一族が緑卯に助力をしてくれるのなら、

何があっても大丈夫な気がした。美しく気高い彼らはいつも強く、優しかった。目をつむったまま、蒼はしばらくそうしていた。

幸せを噛み締めるように。やがて体を離すと、佐塗の目蓋に口付けて、言った。

「汗をかいたみたい…湯浴みに行ってきても、いい?」

佐塗は頷いて、蒼に衣を持たせ、風呂場の入口まで付き添った。まだ足が覚束ないのではないかと心配したのだ。

足の裏の柔らかな部分が、板の廊下を踏みしめる音と、尻尾の振れる音を聞きながら、蒼は思った。

本当に小さな頃に返ったみたいだ、と。あの頃はよく二人で風呂に入ったものだった。私だけの、大切で自慢の友達だった。

今もそれは変わることはないけれど。風呂場の入口まで来ると、侍女が三人、それに千紗が待っていた。

恐らくもうすぐ風呂に入りに来るだろうと烏吠辺りが伝えたのだろう。そこまで来ると、佐塗は侍女たちに丁寧にお辞儀をして、

蒼に一言、「同じ部屋で待っているから」と告げて戻っていった。千紗は、満面の笑みで蒼を迎えると、軽く肩を抱いて中へ促した。

「心配したのよ、あなたったら顔色が物凄く悪くて、烏吠殿の顔も真っ青だし…

取り乱して喬珂様にまで聞きに行ってしまったくらいよ」そういった千紗はしかし、心底安心した様子で湯浴みの準備をしている。

托し上げた衣の裾を紐で結わいて、袖も同じように背中で括った。

「大丈夫よ、体調が悪いわけじゃないの、眠ってたのよ」

蒼が可笑しそうに言うと、全く、と呟いて千紗も笑った。

「眠りこけていただけの蒼をあんなに心配して、自分が今更ながら可笑しいわ」

一先ず体を洗うのを千紗が手伝い、髪を侍女が洗っていると、蒼は段々と暗い顔になっていった。湯の熱さが急に冷たくも感じた。

「どうなさいましたか、蒼様」

侍女の一人が尋ねると、ついには顔を覆った。もう、みっともない、蒼は自分で自分を叱りつけたが、

もう悔しくて情けなくて仕方なかった。烏吠にも、千紗にも、申し訳ないことばかりだった。

「ごめんなさい」

「どうして、何を謝るの」

千紗は顔を覆っている手をどけようと腕を掴んで優しく尋ねた。

「ごめんね、千紗。心配だったでしょう、ごめんなさい」

千紗はすぐに蒼が羽陽のことを言っていると理解したが、笑い飛ばした。

羽陽が危険な目に遭っても、強い男だと信じていたから、蒼が言うほどには心配はしていなかった。

むしろ、今度のことは国全体の存亡に関わる事だ。蒼の一行に例え羽陽が編成されていなかったとしても、

無理にでも行っただろう。それに羽陽は千紗のものではなかった。

「いいえ、心配じゃなかったとは言わないけれど、あなたがそんなにまで気に病む必要はないのよ。

私あの人を信じているし…それに、勝手に慕っているだけの身で何も言えないもの。むしろあなたも同じように心配だったから、

羽陽がついていくと知って少し安心したくらいよ。大体、辛かったのはあなたと烏吠様でしょう。

結婚したばかりなのに、引き離されて。烏吠様はあなたが行ってから物も喉を通らないくらい心配なさってたのよ」

何も言えない、言ったら泣いてしまいそうだ。自然と口が震える。

「大丈夫よ、みんな無事で帰ってきた。それだけでこんなに嬉しい。今はそれだけで、充分でしょう」

千紗の言うことは、蒼にとってみれば甘やかしもいいところだった。確かに、羽陽を危険に晒したことは事実だ。

しかも千紗が心配しているのを蒼は痛いほど分かっていた。烏吠を思う自分の気持ちと少しも変わらないのだ。

待っているこのひと月あまり、千紗は苛立ちを募らせて蒼にそれを少しでもぶつけていいはずだった。

「千紗」

「もう何も言わなくていいわ。あなたの思っていることはよく、分かってるもの。

でもね、これはあなたの責任じゃないのよ、それをそんなふうに謝るなんて馬鹿げてる。

大体、私と羽陽がもう夫婦にでもなったような口ぶりだけれど、一方的な片思いなのよ、大げさだわ」

千紗の笑顔は嘘のない美しい笑顔だ。これのおかげで、蒼はやってこれた。

しかし、景のことがあった後では、素直に受け取れない。自分の地位というものは

こんなにも人の感情を刺激するものなのか、とあの断末魔を思い出しながら考えていた国までの道で、

真っ先に思ったのは千紗だった。千紗にも、知らずに自分の地位が苦しみを与えていたのだと。

「色々とあったのは噂で耳にしたけれど、あなたの口から聞いたわけじゃない…。

でも、きっと辛かったのね。それくらい分かってる。でも、だからといって、

私にまで責任を感じなくていいわ、今は頼ってほしいのに」

分かった、と微笑むのがやっとだったけれど、千紗が景のことを耳にしていると思うと、

いっそ全て話してしまいたいと思う自分もいて余計に苦しくなるだけだった。

今度こそ、自分はもう蒼としての感情をみだりに外へ出してはいけないようになった、そう感じた。

辛いと感じることさえ気分が悪い。景は自分が殺したも同然だった。頭では景を殺すのが正解だったと、冷静に認めている。

吐き気がするのは自分のこの覚めた感覚だった。それにも関わらず人死にどこかで動揺する脆弱さが残っている。

この二つが醜く思えてならなかった。嫌気の刺す今の自分から離れるために、湯の温かさを感じようと必死で

意識を集中させ、立ち上る湯気を吸いこんだ。汚れと共に、なにもかもを洗い流して、あの出立の日に戻して欲しかった。


湯浴みを終えて戻ると、部屋には佐塗の他にも烏吠と喬珂が居た。

彼らは共に部屋の奥に座り込み、外へと繋がる戸を開け放って広い空を見上げていた。

紺碧の美しい空が月を抱き、澄みきった空気が夏に見なれぬ顔をさせていた。

男たちは氷室から取ってきた氷を浮かべて水を飲んでいた。笹の葉を入れた杯から蒼い香りが立ち上り、

湯上りの蒼を優しく撫でた。思わぬ良い香りに微笑んで、静かに三人の後ろに座り込んだ。みな静かに月を眺めている。

烏吠の後姿を蒼は見つめた。あの出立の時と同じ、深紅の紐が黒い髪を束ねている。

流れる髪のあとを眼で追えば、いつも自分の声を聞いてくれるあの耳が月明かりに照らされて蒼の声を待っているかのようだった。

しかし、きっと今は何も話さずにこうして感覚だけで互いを想うことが必要なのだろうと、蒼は少しだけ烏吠の傍に寄るだけにした。

みな水を静かに口に運び、さらさらとなる幾多の葉の音を聞いていた。

烏吠はやがて蒼を振り返り、自分の持っていた杯を蒼の口元へ持っていった。飲め、と無言で差し出されたそれを受け取って、

もう一度笹の香を嗅いだ。この夜を忘れないだろう、そう思った。鼻孔に広がる凛とした香がそうさせるのだ。

記憶を留め、またいつかこの香でこの夜と月を思い出すだろう。

ゆっくりと飲みこんだ一口を待っていたように、烏吠が杯を受け取り、月に照らされた顔をこちらに傾けた。

ひたすらに見つめる瞳は、たった今飲みこんだ水のようにそこら中にある光を蒼に見せていた。愛おしかった。

瞳をずっと見つめていると、何か言葉を、と思ってしまう。けれど、やはりやめようと思いなおした。

深く深く互いの瞳の中に潜っていくようだ。月や、笹の香、風の香、音、光。そのどれもが互いの気持ちだった。

胸が静かに上下して、胸の鼓動が交わっていくようだ。大きな風が吹いた。烏吠の髪が一筋、蒼の頬を撫でると、

それを合図のように烏吠が蒼に深く口付けた。この夜を忘れないだろう。みなに認められた些細な出来事のように、

烏吠から与えられた口付けは何も躊躇いをもたなかった。体を離した烏吠の大きな手のひらが蒼の手を包み込み、

その甲を撫でた。この大きな手に、蒼はいつも、強く幸せを感じるのだった。長い指が蒼の指をいたずらに掴み、

一本一本の指を確かめるように辿った。されるがままにその様を見ていると、烏吠が微笑んでまた顔を近づけた。

今度は耳に唇を押し付けては額を蒼のこめかみに当て、それを幾度も繰り返した。まるで猫がじゃれるように何度も何度も。

甘えるように衣を掴むと烏吠が喉の奥で笑いだした。笹の香の中でいつまでもこうしていたいと痛いほど思った。

やがては佐塗と喬珂も近寄ってきて皆で体を寄せ合い、月をみた。

窮地を乗り切った愛しさと労わりが心の外へと抜け出して、互いに通じ合っていると強く感じることができた。

涼やかな風を頬で感じながら、蒼はやっと一言つぶやいた。

「すずしい」

風を感じて獣のように目を細めた。今、こうしてこの夜を与えられたことに深く感謝した。

それだけで自分はこんなにも満たされている。自らが悩み、怒り、躊躇い、そして悲しんだこと全てを、今だけは忘れよう。

今だけは忘れて、こうして風を感じるだけの存在になって、夜を生きる。今夜は月も風も葉も水も、空も、

なにもかもがその為だけにあった。美しく、みな高貴な顔をしてそこにある。自分もこの一部だと思っていいのだ。



おそらくは、そうなのだ。



さらさらと流れる風に、いつのまにか烏吠の肩に寄りかかり、蒼は眠っていた。

その蒼の頭を撫で、烏吠は喬珂に言った。

「明日、もしも上手くいかなかったとしても蒼だけは逃がす。なんとしても」

黙っている時よりも静かに、烏吠が言った。

「心配するな」

喬珂が呟いた。

「だれも、傷ついたりしない」

烏吠は小さく頷いて、蒼を抱き上げると佐塗に目配せをした。準備を頼む、とそれだけを言い置いて部屋を後にした。

「よい夢を」

低く、美しい声で佐塗は歌うように二人を送り出した。














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