1







「眠れないか?」

「ううん、そうじゃなくて」

「気になるのだな、やはり。」

優しく触れる手のひらが、本当はつらかった。

優しい手に慰められる度に、目の前が霞んだ。

「大丈夫だ。心配ない」

「やめて」

「蒼」

手をはねのけると、庭に出た。まだ熱のある体だ。ひんやりとした土の感触が、足の裏に伝わる。それさえも今の自分には

現実感のないことだった。夜の匂いも、木の匂いも、背中から追ってくる卦兎の足音も、ふわふわとして感覚をきちんとつかめない。

雲を踏んでいるようだった。雲の中を歩いているかのようだった。全てが遠い。

「こないで。」

「蒼」

「卦兎、お願い、今来ないで。戻って」



着物の音がする。卦兎が私の傍に寄る。


肩に掛けられた着物は卦兎のものだった。夏とは言え、ここはやはり寒い。

蒼はまだ闇の中に沈んでいる森を見下ろした。ここは森の一番高い場所だった。木々の間から広大な緑が昼間なら見渡せた。

蒼が今出てきた屋敷は、その森の開けた場所にあった。小さいが、居心地は良く皆親切であった。


着物から、笹の香りがした。卦兎の香りだ、と蒼は着物を握りながらぼんやりと思った。

足音が遠ざかると、また蒼は今朝のことを考え始めた。

とにかく必死だった。血の匂いと、断末魔が、そこらじゅうに散った。自分の息遣い、血の匂いははっきりと残っているのに、

その時の映像は途切れ、もうくっきりとは浮かんでこなかった。最後に自分が止めを刺した相手を除いては。



「その剣はまじないに囚われている。もう、遅い」

剣を振り上げた瞬間に、あの男は見開いた眼で自分を見つめながら甲高い声で笑った。


あの言葉が意味していること、もう十分に分かっている。しかし自分に降りかかることだ、今更そんなことは恐れたくない。


笹の香りに、埋もれていると、余計に苦しかった。涙はもう出なかったが、その代りに不安でみぞおちが浮いているような気分だった。



1章





「昨日は御苦労だったな、蒼」

黒髪の男、烏吠が口を弛めてそう言った。

「そんな、大したことは何も」

「たまには素直に喜べ、男でも昨日のような急襲には太刀打ちできるかどうか。

可愛げのない娘だ、貴様は。だからいつまで経っても嫁の貰い手がつかんのだ」

じろりとこちらを睨んできたのは烏吠の従弟、喬珂であった。

喬珂は背が高く、癖のある、灰色がかった黒髪は肩まであった。子供の頃、彼は髪の色が一人一族と異なっていた為、鬼子だと言われてからかわれていたが、

蒼にはあの時よりも今の方が鬼の様だといつも思っていた。眼光鋭く、いつも彼には小言しか言われないので、蒼はこの大きな男が苦手であった。

反対に彼の従兄の烏吠は穏やかな人であった。声を荒げるようなことは決してない。無造作に切った髪を結っている姿は、

娘たちに人気があった。いつも静かに微笑んでいるから、人に安心感を与える。蒼はこの叔父が好きだった。

しかし二人とも大柄な男である。今三人が居る部屋は少し狭い。蒼は早くも部屋を出たくて仕方なくなった。

「そわそわと何をしている、厠か」

「違います!喬珂、もう私は子供じゃない、そういう、」

「むきになるな、喬珂の思うつぼだ。」

軽く声を立てて烏吠は笑った。蒼は部屋を出たいのではない、実のところこの叔父と二人きりになりたいのだ。

それを喬珂は分かっていて邪魔している。

烏吠は急にまじめな顔をすると、溜息を付いた。首を抑えると、空いた右手で蒼の手首を握った。

「しかし、本当に悪かった。来るのが遅れて…お前の剣技がどれほどのものか、分かっていても心配だった。」

「本当に助かりました。烏吠が来てくれなかったら、私はあの男に殺されていたかもしれない。」


また、あの甲高い笑い声が頭を過った。烏吠は握った手首を離すと、喬珂に言った。

「さて、そろそろ私をいじめるのはやめてくれ、喬珂」

「烏吠、夕刻になったら客が来る。それまでにこいつを支度させろよ」

呆れた声で言いながら喬珂は立ち上がった。

「今夜は酒が飲める」


喬珂が出て行くと、烏吠は蒼の傍に寄った。さっき離した手首を取ると、強い力で引き寄せた。

「烏吠」

蒼も負けずに抱きしめると、烏吠は少し声を漏らした。

「馬鹿者…今回は運がよかったのだ。卦兎を付けて良かった。何かあったら私はお前の父に首を捧げねばならん」

「いや」

「いや、ではないぞ、遠方に寄こすのに私が居ればという条件付きだった。それを裏切るようなことをしては…いや、もういい。」


烏吠は蒼を離さなかった。確かめるように髪を撫で、顔を肩に埋め込んでじっと動かなかった。

「烏吠、にいさま」


つい昔の癖が出てしまう。祖父の養子であり、義理の叔父であると知ったのは出会ってから七年経った、十六の夏だった。それまでは兄と思い、

何をするにも付いて回った。にいさま、と呼んでしまう度に、あの頃を思い出す。

今、あれから五年が経った。烏吠は二十九になった。あの頃よりも更に精悍な顔つきになったが、穏やかさはそのままであった。

「久し振りなんだ、じっとしていてくれ。直に喬珂が来る。それまで」


そうしていると、あの甲高い笑い声が薄れていくような気がした。本当は屋敷に到着してから、烏吠にすぐにでもこうしてもらいたかったが、

泣いてしまうのは嫌だった。だから一晩一人にしてもらったのだ。卦兎には不審がられてしまったけれど。泣いて心配させたくなかった。



硬い腕と胸が、蒼をしっかりと抱きしめていた。烏吠は時折こうして蒼を抱きしめたが、それ以上は何もしなかった。

初めて抱きしめられた時、蒼は驚いて口をきくことも忘れたが、今はもうこの場所が安全だと知っている。

もちろん、二人が共にいればお互いを想っているのは一目瞭然であったが、烏吠が蒼を大事にしていることを皆知っているから、

口さがなく言う者はなかった。しかし、あまりにも大事にしていて、妻にするのをためらっているので、

烏吠をけしかける為に、夕餉の酒をすりかえる者がいるほどだった。



しかし、蒼は不安だった。烏吠が何もしないことを、最近は嬉しいとは言えなくなってきた。他の娘たちから烏吠について聞かれるたびに、

自分たちの間にとくに頬を染めて話すようなことが無い、と確認することになる。もしや烏吠は他の一族に好きな娘がいるのか、と思うこともあった。

甲高いあの笑い声が薄れていくと同時に、今度は年頃の娘らしい不安が蒼に目を伏せさせた。


「蒼、どうした。」

「烏吠。ありがとう…。でも烏吠が忙しいのは知っているから…あんまり無理は」

「なんだ、私が無理をしてお前の傍にいると思っているのか」

おどけたような声で言うと、烏吠は一度体を離した。顔を覗き込むと、溜息を付いて言った。

「私も今年で二十九になる。お前よりも九つも歳を取っている。」

「はい。」

「私はあまりはっきりとは口にしない。そうだな…私の言葉と行動に、お前が不安を抱くのも無理はない…。

それも分かっているつもりだ。」

「…なにも不安は」

「嘘をつけ、ならば、」


もう一度抱きしめると、烏吠は耳元で囁いた。

「娘たちに囲まれているときに憂えた顔をするな。私の立つ瀬がない。」

烏吠の声は心地よかった。いつまでも聴いていたい。蒼にはどんな音よりも美しく聴こえた。森の葉が音をたてるときよりも、

日が昇るときの滝の音も、こんなふうには自分を癒してくれなかった。


「不安なのは私の方だ。お前がこんな歳の離れた叔父を、恋うてくれるのはいつまでだろうかと、」

「いつまでやってる」


喬珂の声で烏吠は一瞬ひくりと体を揺らした。

「いきなり入ってくるな、驚いたぞ」

「まったく、支度をさせる時間がなくなるだろう。こんな様では夜盗が来ても二人して見逃してくれるのだろうな」

「よせ、今行く。酒の席で皆に言うなよ、夜に見張りをさせるぞ」

「宴に行く前から酔っているのではかなわんな」


喬珂が再び出て行くと、烏吠は蒼に口づけた。

「娘たちに土産話が出来ただろう。もうあのような顔はするなよ、…私はお前に信用されていたいのだ」


ほほ笑むと上着を手にして立ちあがった。

「さあ、まずは湯浴みだ。化粧はするなよ、酒の入った連中の前で下手に着飾っては面倒だ。

喬珂以外にも酒臭いやつらがたくさん来る。隣から離れるな」

「はい」


蒼はあの朝から初めてほほ笑んだ。烏吠の背中が妙に愛おしかった。

喬珂の、誰が酒臭いだ、という怒りの声を背中に聞きながら、蒼は湯殿へ向かった。






宴は思ったよりも大規模なものであった。もともと烏吠たちの手勢が討伐をする予定であった一族が、

急に蒼を襲った。結果として蒼に気を配っていた烏吠の守りが、烏吠へ伝令に走り、予定よりも早く片が付くこととなった。

もともと秋から冬まで、もしくは次の春までかかると思われていた今回の討伐は、まだ木々が赤い葉を落とす前に終わることになった。

予想外の吉報に、人々は沸いていた。だれもかれもが浮足立ち、恋人の手を取って外へ行く者や、酒に潰れるもの、勝利に泣く者など、

大変な賑わいだった。厳しい季節が始まる予感と共に、愛する夫や恋人に襲いかかる死の影を感じて皆体を震わせていたから喜びもひとしおだ。

一族の長として烏吠は酒を受け、配下の氏の者から労いの言葉を掛けられていた。喬珂は酒と宴に没頭していた。

酔わない男ではあるが、宴の時はやはり普段よりも口数は多い。今日もそうだった。

「おい」

「なんですか。」

「なんですかではないだろう、こちらへ来い、酒を受けろ。」

蒼は盃を構えると、喬珂の酒を受けた。

「今宵の宴はお前が主役なんだ、もっと飲め。食らえ。料理がもったいない」

「ほっといてもなくなりますよ、喬珂」

確かに今日の宴は蒼が主役と言ってもよいものであった。しかし、烏吠の目の前で蒼に酒を注げるのは喬珂くらいのものであった。

あの穏やかな烏吠が、蒼を酔わせた氏族の若者を川に投げ込んだことがあった。あの時から、宴で蒼に酒を注ぐ者はほとんど居なかった。

それでも蒼を連れ出そうとする者は後を絶たないので、烏吠は宴の時には蒼に対していくらか神経質なほどであった。

宴に呼ばれた氏族の中には蒼と烏吠の仲を知らぬ者が多い。蒼を唯の兵だと思っている者の方が多いのである。

実際には烏吠よりも蒼の方が一族の長としての立場に近いのだが、祖父は蒼に弟が生まれぬのを悟ると烏吠を迎えたのだった。

女の身で一族を支えるのは無理だといった。できればどんなにいいか。しかし戦をするのに前線に出ることもある長に、蒼を据えるのは気が進まなかった。

幼いころから武芸に秀で、学問も長の家の者として申し分なかったが、そんなこと以上に祖父は蒼を可愛がった。男ばかりの一家に、初めての娘が誕生

したのだ。父も叔父たちも、みな蒼を可愛がった。その叔父たちも、みな他の氏族へと婿に行った。長の血を残す為と言う者もいたが、蒼は違うと知っていた。

祖父は家に固執したくなかったのだ。大きくした一族を、守りたいという気持ちはあれど、支配したいという気持ちはなかった。だからこそ、息子たちにそのまま

跡を継がせることはしたくなかった。だから、蒼の父を残して他の叔父たちは外へ行った。蒼に弟がいれば、話は違っていたかもしれないが、祖父は父に後添えを娶れ

とは一言も言わなかった。実際良いきっかけとして考えていたのだろう。新しい体制を整えるのに、世襲は古いと悟ったのである。


父は蒼を厳しく育てた。母はいない。蒼が十の頃亡くなった。父はその後、祖父や叔父たちと共に蒼を育て、一族をまとめてきた。しかし、あくまで次期の長を

据えるまでの短い期間であった。祖父の友人の息子である烏吠が来たのは蒼の父が一族をまとめる「鵜屋」の役目を始めてから3年後のことだ。

あれから、烏吠は仮長として緑卯の一族を率いている。



祖父の予想していた以上に、烏吠の実力は素晴らしいものであった。一族の信頼を勝ち取り、人の繋がりが広がるうちに増える配下の者たちの統制も、きちんと

行うことができていた。だが困ったことに、烏吠は蒼から目を離せなくなってしまった。

「まったく、あの子たちは私の思ったとおりの子であるのに…そこだけが思っていたのと違うのだ…。仕方のない。」

と祖父はきっと今日のこの宴の席でも口にしているだろう。

世襲をやめるために迎えた養子が、孫に惚れてしまった。文句の一つも言いたくなるだろう。しかし、今更一族の者たちに申し開きをしなくても、皆理解してくれた。




「確かにな、私が食う。お前が食わないのなら。しかし菓子はお前の好物だろう」

喬珂は蒼の持っていた盃を奪うと、空になったそこに菓子を盛って渡した。

宴の楽しみは酒だけではない、蒼はこの宴で出される菓子が好物だった。喬珂も長い付き合いだ。烏吠と同じほどには蒼を理解している。

ただ威圧感があるだけなのだ。

蒼も喬珂には感謝していた。彼の眼に睨まれるのは苦手だか、烏吠を支え、今日まで守ってくれていたのは喬珂である。

喬珂が居なかったら、と思い返すと肝の冷える話は一つ二つでは済まない。

「ありがとう」

「ん・・・・」

不意に喬珂は顔をあげるとまじまじと蒼の顔を見つめた。珍しく穏やかな顔で蒼を見ると、酒を飲んで言葉を切った。

「なんです」

「いや、今の礼は居心地が悪い」

いろんな意味の込められたありがとうだと気付いて喬珂はやめろと言っているのである。

「いいじゃないですか、私は本当に感謝しているんです」

「それは婚姻の日にでも言うんだな。うかうかしていると烏吠を他の娘にとられるぞ」

実際にうかうかしているのは烏吠である。喬珂は烏吠に聞こえるような大声で言ったのだ。

「喬珂」

「事実だ。烏吠、絡むなよ」

「絡んでるのはお前だろう」

酒と共に味わう菓子ほど最高なものはない。蒼は二人を放ってそちらに集中した。甘葛で似た栗でつくった団子や、水飴に潜らせた梅の実、

キビから作った飴のかかった粟餅。露のように輝く葛の細工。全てが蒼の眼の前で輝いていた。

「美味しいですか」

「はい、とても。失礼ではございますが…」

「ああ、すみません。私は衣汰の者です。李歩と申します。」

「衣汰の」

「ええ。この度は勝ち戦でなにより。おめでとうございます。あなたの叔父上は私の友の父ですから、お会いする度によくお話は伺っております」

「恥ずかしい、樹平の叔父上ですね。では羽陽の」

「ええ」

「羽陽は元気ですか。私ここ最近この森の奥には足を運んでないので・・・どうしているかと思っていたんです」

「元気ですよ。おや、今日お会いしませんでしたか」

「来ないと伺っていたので・・・来ているの」

「烏吠」


突然低い声が響いたと思ったら、烏吠の横に烏吠よりも大きな男が立っていた。髭面で、元気かと聞かれていた人物とは思えぬほどの体格である。

「いいかげんにしないと蒼を衣汰へ連れて行って李歩の嫁に据えるが良いか、良いのだな」

こちらはもうすでに出来上がっている。挨拶も済まさぬうちに羽陽は李酒を一瓶空けていた。

「黙れ、酔っ払い。本当は李歩でなく自分の嫁にしたいのだろう」

「なんだと、この猪子が」


この二人が喧嘩を始めると、少々面倒だった。隣を離れるなと言っておいて烏吠はきっと外で組み合いを始めてしまう。

「烏吠」

「羽陽が図々しくも、おまえを嫁にしたいと仰せだ、お前の口から断れ」

「羽陽、もう李酒を空けたの。呆れた」

「煩いぞ、いい加減に落ち着いてくれぬと、父上が今のうちに貰ってこいと煩いのだ、私の為にもはやく婚儀を挙げてくれ」


髭面で粗野な面もあったが、蒼はこの従兄を頼りにしていた。面倒見がよく、烏吠とは同い年で、よく支えてくれていた。

それに、羽陽は蒼の親友の思い人でもあった。密に二人を引き合わせようとしてはいるが、なかなか羽陽は思うとおりに動いてはくれなかった。

―もういいかげんくっついてくれと思っているのは私の方なのに

羽陽は本気で喧嘩しながら烏吠と酒を飲んでいた。

こうして口論だけだと安心しているとたまにどちらかの気に触れて本当に掴み合いが始まってしまう。

「烏吠」

「どうした、疲れたか」

「いいえ、ちょっと羽陽と二人で話したいのだけど、いい」

「だめだ」

羽陽が盛大に笑った。

「嫌われるぞ、野郎の嫉妬は醜い」

軽く腕に触れると、お願い、と言い置いて蒼は羽陽を連れ出した。

少し宴の喧噪から離れた所へ出ると、緑や赤や黄色の硝子に入った油に灯りが点々と灯り、森の緑を部分的に映し出していた。

もうすぐ真夜中になろうとしていた。祭りの夜は深まれば深まるほど、美しかった。

卦兎が後ろから距離を置いて付いてくるのがわかる。二人にしてと言ったのに、と蒼は内心溜息を付いた。

李酒も、既に四瓶目を握りしめている羽陽は、それでも足取りはしっかりしていた。

「どうした、珍しいな、烏吠を置いて行くとは。穏やかな緑卯の長が、人違いかと思うほど眉をよせていたぞ」

「羽陽、あんたがそんなだから心配なのよ、まるで熊じゃない」

「今日はな。磨けば光る」

「少し酔いをさまして。話はそれから」

わかったと言いながら、羽陽は蒼のまわりをくるくると回った。剣舞の動きだ。余計に酔いがまわる。

「羽陽、じっとしていなくていいの」

「大丈夫だ」


一通り舞うと、羽陽はとすんと蒼の横に腰を下ろした。

李の香りが、甘く、重く漂っていた。

「酒臭い」

「黙れ、お前は飲まなすぎるのだ」

灯りごしに、夜空が冴えわたって、星が散っているのが見えた。同時に風がそよぐのが心地よく、蒼は目を細めた。


「千紗のことなのだけど」

「よせ、悪いがその気はない」

千紗のことを話に出すと羽陽はいつも機嫌が悪い。烏吠が心配なのはそのせいでもあった。

「羽陽にとってあんなに良い娘はいない。もう意地を張るのはやめたら。もう二十九でしょう」

「二十のお前に言われたくはない、お前に心配されずとも、私は今のままで幸せだ」

「そういうことを言ってるんじゃないの、千紗の気持ちを知っていて無視しないでと言ってるの。言葉を交わすくらい、」

「その気はないのに言葉を交わしたら、余計に心細い思いをさせるだけだろう」

千紗は美しく、小柄な娘だった。蒼は一族の中で一番だと思っている。何が悪いのか。頭も切れるし、何でも手際が良かった。

羽陽のようにあまりにも粗野な男には千紗のような娘が必要だと蒼は分かっていた。

しかし羽陽はまるで千紗に目を向けないどころか、嫌ってさえいるようだった。

「なぜそんなに頑なになるの、千紗はいい子だから、きっと羽陽も」

「お前…。烏吠も困ったものだな…今はやつの気持ちもわかるような気がするぞ」

「烏吠は関係ない」

とにかくこの男には幸せになってほしかった。九つも上でも可愛らしいと蒼は思っている。兄のような、弟のような、喬珂や卦兎と同じように大切だった。

「蒼」

肘に置いた手に顔を埋めていた羽陽は少しさびしそうに言った。

「お前が従妹でなければ、堂々と名乗り出たのにな…」

くぐもった声が少し胸に響いたが、仕方なく蒼は声を強めた。

「はぐらかさないで、羽陽。いいから今度の満月の日に、日が沈んだら同じ場所に来て。千紗を連れてくるから」

「行かない、私は、」

「羽陽お願い」

そこへ付いてきていた卦兎が進み出て言った。

「烏吠様が痺れを切らしております、羽陽殿、蒼、席にお戻りください」

堂々と名乗り出たのに、という言葉は前から蒼がよく羽陽に言われる言葉だった。しかし、それが本当だとは思っていない。

可愛がってくれているのは知っていた。でもそれを恋だと認めるには、自分には何もかもが大きすぎた。

羽陽は家族を持つのが嫌なのだ。きっと、千紗のことも自分とは違いすぎる存在に接する術を持たないだけだろう。

蒼はそう思っていた。宴に戻ると羽陽はどこか別の席へ行ってしまったが、蒼は満月の日に彼が来ることを確信していた。

今回ははっきり千紗との関係にいい形で答えが出るという予感があった。






烏吠はやはり心配顔だったが、微笑んでいた。

「まったく、羽陽は一生独り身かもしれんな」

「いいえ、今回は違う気がした。大丈夫、私が引き合わせてみせる」

「酷なやつだ」

喬珂が現れて言った。

烏吠はまったくだなと、小さく言った。

遠くに見える羽陽の横顔が、喬珂には哀れに見えた。身なりをわざと粗雑にしているのも、妻を取らないのも、いつも酒を

浴びるほど飲むのも、烏吠に絡むのも、羽陽にしてみれば精一杯の行動だった。喬珂には少し羽陽の髭が羨ましく思えた。

李酒をすすると、喬珂は蒼の顔を見て言った。

「俺も髭をはやすかな」

「似合わない、喬珂はそのままでいいよ。でも、どうしたの、らしくない」

蒼が困ったように眼を向けた。

喬珂は軽く笑うと烏吠に向かって盃を差し出した。黙って烏吠は酒を注いで、蒼に言った。

「もう眠るといい、ここは酔いどればかりになってしまった。居心地が悪いだろう」

「いいえ、でも…もう部屋に行くよ。烏吠、喬珂、卦兎、お休みなさい。今回の戦、お疲れ様でした」



蒼が部屋を出て行ったのを見守ると、喬珂は卦兎に近寄って、真剣な顔で言った。

「御苦労であった。本当に、礼を言う。お前が居なかったら…」

「礼はもう烏吠様からも、蒼からも頂きました。お気になさらず。私も貴方や烏吠さまに助けていただいた身です。

本当に、相変わらずその腕は冴えわたるようで…羨ましい限りです」

「お前の剣も相変わらず冴えている。本当に頼りになる。」

「そう言っていただければ何より。では今宵はこれで失礼いたします。」

卦兎の髪飾りがしゃらりと音をたてて光った。美しい赤は卦兎の耳飾りと同じ色だった。

喬珂はその赤を一瞬だけ、憎々しく思った。あの一夜、烏吠がどれだけ心配していたかもしらないで、

この男は蒼に何を言ったのか。何をしたのか。いつも肝心な時に蒼の傍にいるこの男を信頼してはいても、

どこか疑いの目で見てしまう。あまりにも穏やかな振る舞いと剣の腕が不似合いで、喬珂はいつも首を捻るのだった。

卦兎はにっこりと笑うと蒼が行ったのと逆の方向へと向かった。

「烏吠」

「なんだ。卦兎についても何か言いたげだな。」

「いや…。違う。しかし…。蒼はなにかおかしくないか。何か隠しているだろう。」

「たぶん襲われた時に何かあったのだろう。分かっている」

「分かっているならなぜ聞いてやらんのだ。本当に羽陽や卦兎に持って行かれるぞ」

「今聞いても駄目だ。蒼は自分から言い出すまで待ってやらなければならない子だ。

私が聞きたそうにしていることも承知しているだろう。だが、私に依存したくないのだ。昔からそういうところがあった。」

少し、寂しそうに烏吠は言った。

「なぜ蒼を襲ったのか、見当はついているのか。」

喬珂はあの時、蒼が殺した敵を一人一人調べたが、何が目的なのかは分からなかった。

烏吠の婚約者であるという噂があるのはもう何年も前からだ。ならばとっくに標的になっていたはずである。

「殺す気だったことは確かだな。だが・・・それ以上になにか引っかかる。」



冗荏の一族はずっと緑卯と敵対してきた相手であった。何代か前の長の代に、長の妻を攫って殺したというのが伝説ともなっていた対立だが、

本当のところ、真偽の程は分からない。烏吠は長に聞かされた話からある意味分家である向こうの一族が台頭してくると、

こちらの収穫物を取り立て、挙句侵略を企てるように刺客や物見を放つような不穏な動きを始めたことが原因であるとは分かっているものの、

それだけではないことも承知していた。長にも分からない怨恨の影が長い時の中に沈んで、感情だけが悪い形で残ってしまった。

しかし、今回の急襲や討伐の対象であった氏族は、冗荏との関係があるとは誰も思い至らなかった。蒼はしかし、冗荏の息が懸っていることを

確信し、この緑卯の長にそれを伝えたという。喬珂はその判断の決め手となったものが何か知りたかった。




「緑卯と冗荏の二つの族の間にある何かを、掘り返しにきた・・・」

「そんなもの、向こうにもこちらにも覚えている者など残っていないだろう。覚えているとしたら、」

「覚えているとしたら。そうだ、時期を狙っていて、行動に移したのがあの日だったのかもしれない。例えば蒼が大人になって、私の妻になる頃を

見計らっていたのだとしたら」

「あいつの歳がなにか関係あるのか。わからんな。憶測にすぎん。20になると嫁に行くという話は一般的だが、それとその「時期」というものの繋がりが」

「だが…少なくとも、向こうは我々の知らない何かを知っているのだろう。それが分からない限りは直接聞くか、守りに徹するか…。いずれにせよあの子との

婚姻は急ぐつもりだ。一月以内には、蒼にも覚悟してもらわねばならんな」

あちこちで寝息が立ち始め、先ほどよりも幾分喧噪は和らいだが、まだまだ酔いつぶれて騒いでいる輩は多い。

その中で、烏吠と喬珂だけが、目を光らせていた。酒も醒め、喬珂は先ほど蒼が口にしていた団子を頬張りながら言った。

不思議でならなかったことがあった。

「覚悟ができていないのはお前だと思っていたがな。違うのか。あの娘に自分の心を知られたくないからだと」

「いや、もう隠しきれたものではない。そうではないのだ。ただ、あの子が私を心の奥では恐れていることを知っているからな、兄としても無体はしたくないだけだ。」

「兄という立場に逃げるのはよせ、兄という逃げ場をあいつから奪ったら距離ができるのではないかと思っているのは、あいつではなくお前だろう。」



「蒼に近付くときの言い訳は多い方がいいんだろう、汚いやつだ。兄でも、叔父でも、夫でもいたいのだ。欲張ると何一つ残らんぞ。」



いつの間に傍まで来ていたのか、羽陽が吐き捨てるように言った。

「二十九にもなってお前は女の扱いを知らんのか」

吐き捨てるように言う羽陽は先ほどよりも沈み込んで更に暗雲を纏っていた。

「貴様も同じ年であろう、同じようにあの娘に執着しているだろうが」

喬珂は心底おかしそうに顔を弛めて笑った。

「喬珂は黙ってろ、烏吠は私があの娘をずっと欲しいと思っていることを知っていながらぬくぬくと私の目の前で、」

「よせ、烏吠には烏吠の考えがあるのだ。婚姻は危険も伴う。あの娘の名が増え、冗荏の連中にもより目を付けられることになる」

残りの団子を全て平らげながら、喬珂はぼんやりと言った。

「言い訳という点では同じだな、羽陽。お前もあの娘に何かきちんと言葉をくれてやったことがあるか。貴様も怖いのだろう」

羽陽は黙ったままゆっくりと立ち上がると、盃を持ったまま部屋を出て行った。

響く足音を聞きながら、烏吠は葛の細工菓子を手に取った。

つややかな花の形の葛は、少しだけ溶けて、烏吠の指を滑って行った。目を細めて美味そうに食べていた蒼の唇が葛で光っていたのを思い出して、

烏吠は目の奥の残像を振り切るように一口で飲みこんだ。羽陽の立場であったら、自分はどれだけ辛いだろう。いつも分かっていた。

しかし、譲ることなどできるはずもなかった。口の中で溶ける甘さに、烏吠は後ろめたい気分になった。羽陽の眼差しに、時に自分は焦りさえ感じ、

いらだったりもした。あまりにも蒼が不用意に近付くものだから、余計に羽陽の存在は烏吠の中で無視できなくなっていった。羽陽のふるまいは、

自分にはできないものが多かった。気を引くために、羽陽はわざとああして蒼を心配させるような真似ばかりする。千紗とのことも、受け入れてしまえば

羽陽は完全に蒼とのかかわりを絶つことになる。羽陽が不機嫌になるのは、確かな拒絶よりも辛い蒼の仕打ちのせいだった。

好かれることをどこか避けているような、そんなふうに感じさせることがあった。


安心すると同時に、烏吠は自分の気持ちをあの娘が受け入れることもまた少し難しいだろうと思っていた。

「蒼は大人になった。だが、まだ子供なのだ、羽陽の振る舞いを察するほどには、色事になれてない。烏吠、お前の責任だぞ。」

いつだったか、羽陽の髭を剃ろうと追いかけ回していた時の蒼を思い浮かべた。

羽陽の行動のひとつひとつに、蒼が気付いたら、と思うと怖かった。烏吠と部屋を共有するようになれば、そんなものは時間の問題だろう。

烏吠によって蒼の様子が変化すれば、それに気づいた羽陽の表情に、あの娘は自分への想いを見つけてしまう。それさえも烏吠にとっては耐え難かった。


―羽陽はそんな私の心もすべて見抜いているのだろう。そして、その時を待っている。

だがそれと同じくらい、あれが私に抱かれるのを恐れてもいる。毎日のように。

羽陽の空けた李酒の酒杯が、床にひとつ転がっていた。まるで拾い上げてくれと言わんばかりに。










next





inserted by FC2 system