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「蒼、起きているか」
「うん」
烏吠は薄い夜着だけで部屋へと入って行った。香を焚いていたのだろう、花のような、香りがした。
書を読んでいるが、そろそろ寝ようと思っていたらしい。灯りは少なかった。
「こちらへ・・・来てくれるか」
「何、なにかあったの」
近くに腰を下ろすと、蒼は真剣な声で聞いた。
「それは、私の台詞なんだが・・・蒼、もう我慢はしなくていい、何があったか話してくれないか。卦兎と屋敷に来るのを一足遅らせたのも、それが原因だろう。
あれでも私は心配でたまらなかったのにお前の気持ちを汲んで、許したんだぞ」
「烏吠」
「話せ」
やや強引に腕を掴むと、烏吠は蒼を抱き寄せた。話さないことをいいことだと思っているのではないだろう。話せなかったのだ。分かっている。
しかし、おそらく卦兎は知っていて、同じように自分には黙っているのだと考えると、はらわたが煮えるようだった。
樒の香が強くなった。蒼の体温で、香が暖められて舞っているのだ。
「烏吠、きっと貴方は分かってくれると思う。信用していないわけじゃない。でも、長にも言われていたの、言わないようにって。
口止めされているというとまた少し違うのだけれど。私も長に言われなくとも、誰にも言うつもりはなかった。」
黙って烏吠は聞いていた。落ち着いた蒼の声は、この状況に似つかわしくなかった。聞かれるだろうと予測していたのだ。およそ十も下の娘の方が
自分よりも遙かに大人びていると感じるのはこんな時だ。
「私は緑卯の一族の中で、200年前なら長になっていた地位にある、と長は言ってた。昔はこの家の一番下の女が巫女として一族を纏めて、戦だってしたって。
それが私の5代前から無くなったの。これは烏吠も知っているでしょう」
「知っている」
頬の感触が、烏吠を穏やかな気分にさせた。手に絡む深い緑の髪が、夜露にぬれて光っているように思えた。
蒼の全てが今夜いろいろな思いのなかで少しだけ苛立った烏吠を癒した。
「それで、その5代前の巫女が、あの話の火枝様っていうことは・・・知っている?」
「予想はついていた、しかし」
「殺されたんじゃないの、向こうの一族の男に見染められて、連れていかれただけなの」
巫女は純潔が命だが、この一族の巫力は婚姻を経ても劣らない。森の水によって、その力を維持している。
「殺されていない」
「そう。恋われて、連れていかれて。そのあと、火枝様は一人お子をお産みになったの。だから」
「5代前から、巫女は両方の一族にその血を残すことになった。巫女が、一人ずつ。」
「そう」
少し体を離すと、蒼は烏吠の顔を覗き込んだ。
「もう、隠しておけないの、分かってる。だから、話すけれど」
「蒼」
「両方の一族に巫女が存在するのは、おかしいことだったの。なぜって、今まで私たちの血で維持してきた均衡が
崩れてしまうから。だから、無理やり戦を起こさずに、こちらが巫女を継いでいくことをやめたの。それが一番、火枝様にも、
私たちにもいい方法だったからだと思う。」
要するに、巫女の力は丸ごと向こうの一族に渡ってしまったのだった。巫力は森から失われてしまった。
「でも、この結果を最初から狙って、攫ったんじゃない。火枝様を普通の娘として見初めたの、それが、赫という男で」
「冗荏一族の長の、4代前、か」
「攻撃を掛けてきたのは、その赫の命令だと思う。私が、殺した一人が、・・・・」
「蒼」
抱きしめていたもう一度腕を強く回すと、烏吠は言わなくてもいい、とつぶやいたが、蒼はすぐに続けた。
「赫様の呪術から逃れられると思うな、と言ったの。」
「呪術?しかし、」
「おそらく、最近の話ではないの、きっと。赫が今生きていることも不可思議なことだけれど、もし呪術で生きながらえているなら、
火枝様の巫力を使ってるはず。考えられないことじゃない。きっと、火枝様が死んだ時、赫は私を呪ったんだと思う。」
「なぜ、お前はまだ生まれてもいない身だろう、それは」
「それは、この子が火枝の生まれ変わりだからだ」
仕切り布の傍で、祖父の声がした。
烏吠はちっとも取り乱さずに、声を背にしたまま問うた。気配なら自分がこの部屋に着いた時にとうに気付いていた。
「それは、事実ですか。それとも赫の思い込みか。」
「わからん。少なくとも私は違うと思っている。だが、赫はそう思っている。火枝の次の魂を探り当てて、そして、この子を殺して、この子の体に火枝をもう一度
覚醒させようとしているのだろう。愚かなことだ、呪術は譲り受けたものを使えばその身を滅ぼす。不死という形でな。死を恋しいと思った時には手遅れだ」
「私は、赫は寂しさのあまり、火枝様を呼んでいるだけだと思う。けれど、それが私たちの国を滅ぼすことに繋がるなら、
彼を斬る。でも、一度、会おうと思っているの。その呪術とやらがどんなものか知りたいの。それに、火枝様は火枝様で、私にあの方の魂を求めるのは
間違っている」
烏吠は途端に怒った声で、蒼を叱りつけた。
「なんだって、おまえは、私と婚儀を挙げたくないからそう言っているのか。でなきゃそこまで愚かなことを言い出すような娘ではない、私は、」
「落ち着きなさい、烏吠。これは私が命じたことだ。」
祖父の声で、烏吠は更に怒り狂った。
「いい加減にしていただきたい。私はこの一月の間に婚儀を挙げるつもりでした。それを、こんな形で!絶対にさせません。死なせるようなものだ。私を納得させる
策があるとでもおっしゃるのか!」
烏吠が大声を上げて怒っている。目がつりあがり、月の光が鋭く映っていた。蒼はその瞬間、なんと美しいのだろうと彼の怒号の中で静かに
胸を痛めていた。幸せな痛みだった。烏吠の気持ちを今日ほど直接感じ取れたことはなかった。
「死なせはしない。危険なことに変わりはないが、卦兎が付く。私も姿を変えてついていこうと思っていたのだが、羽陽が適任だろう、あれをつける。」
「なぜです、私が行きます、私の代役なら喬珂がいます、私でなくなぜ羽陽なのです」
屋敷のどこかにまだいるはずの羽陽にも聞こえるほどの声だった。
「烏吠、烏吠」
蒼はようやく呪縛から解けたように体を動かし、烏吠を抱きしめた。樒の香が、蒼の胸を更に締め付けた。
烏吠は抱え込むように蒼を包むと、長に向き直って、言った。
「羽陽は駄目です。それに、行かせない。私は絶対にこの娘をこの国から出しません。なぜ蒼を渦中に投げ込むのか、理解できない」
「赫はどうやら物見の者によると目を病んでいるようだ。こちらで術の音を蒼から消す呪いを掛けていけば、
見たことのない蒼を判断することも出来ないだろう。勘繰られることはない。海からの一族が出入りする機会が多いから、
その隙を見て入ろうと思っている。海の一族には、冗荏のやつらが知らない事実がある。それを利用しない手はない。」
蒼は烏吠に抱かれながら、つぶやいた。
「海の一族というのは、羽陽の母君なの。緑卯の正当な一族でしょう。信用できる。羽陽が付いてくれることになったから、尚更。
でもまだ羽陽はなにもしらない。さっき長が決めたばかりだから。」
何年もかけて、海と陸から、この緑卯の長は冗荏を駆逐しようと機会を待っていたのだ。争いを最小限に抑えるというのも事実だが、
確実に飲み込もうとしていたのも事実だ。烏吠は風に揺られた戸口の薄幕をまるで亡霊でも見るような眼で見つめた。
「冗荏を一掃する為に蒼を使うとおっしゃるか。」
烏吠は怒りが抑えられずに抱えていた蒼を強く抱えすぎていることに気付かなかった。それでも蒼は黙って身を預けていた。骨よりも胸が軋んだ。
「違うな。お前はそればかり言うが。私は、蒼の姿が、もっとも怪しまれずに済むと思ったまでだ。こんな小娘が、まさか剣を持ち、
緑卯の若長の婚約者で、挙句巫女の血筋だとはだれも思わないだろう。それに、赫の力を受けずに済むのも蒼だけだ。」
「呪術を掛けられているというのではなかったのですか」
「確かに。しかしそれは長期的なものだ。おそらく、火枝の死の直後から続けてようやく完成させることができたのだろう。そうした長期的な術には
時間も、力も必要だ。」
赫は部下を身動きせずに殺すこともできる。長は静かに言うと、蒼を見た。今にも折れそうなほどに抱きしめられているその体が、
今は国を助ける重要な鍵となっていた。こうなることを避けるために、継がせなかったのに、皮肉なことだと内心舌打ちをした。
「だから、本当は私ひとりで行くのが一番いいの。自由に動けるし・・・巫女の血を引く者は同じ巫女の一族の力を受けても相殺されて、
術が効かないの。殺し合いになって血が絶えるのを防ぐために、大昔に自分たちに術を施したっていうのは本当で・・・だから、今回私が掛けられている
呪術は、赫の他にも術者がいるということの証なの。だから、それを探しに行くの。その術者が単身でこちらにこないのは、おそらく私の力を恐れているから
だと思う。でなければこんなに回りくどいことはしないはず。だから危険なことには変わりないけど、こちらも術者を連れていけば、なんとかなるわ。
赫を助けている術者を探し出して無力化すれば、私自身も解放される」
その、連れて行く術者というのが、羽陽と卦兎であった。
烏吠は蒼を開放すると、薄幕の向こうに低く言い放った。
「私は嫌です。他に策を考えます。こんなもの、見え透いた罠にかかってやるようなものです。」
「無理だ。烏吠、もう、時間がないのだ。今回の急襲でそれがわかった。蒼の剣が、呪術の依り代になっている。
今は剣を捨てて、時間を稼いでいるが、身近な得物に呪術が浸透しているというのは、もう体内に術が侵入しているということだ。」
体内に術が侵入している場合、強力で、長年熟成されてきた呪術であれば、半年で命を奪う。昔から相手を呪い殺すのに使われる手として、
剣や髪飾り、着ものなどの身近なものに術を眠らせておく場合が多い。使い古された手だが、見つからないようにする技術が冴えていた。長さえも
蒼の危機に気付けなかったのだ。相手の術者は、面倒な形で赫に知恵を貸しているのだ。しかし、恐らく羽陽や卦兎、それに蒼が劣るような相手ではないはず。
でなければ、とっくに蒼の命は消えうせていた、というのが長の考えのようだ。
しかし烏吠にはすべてが罠のように思えた。選択肢を絞られているこちらが不利に思えて仕方ない。
「でも、このまま死ぬのなんていやだし、火枝様の生まれ変わりなんて、勝手に向こうが信じ込んでいるだけだと思う。だから、ちょっとだけ、」
行ってくる、と言おうとした蒼は、烏吠が動かないことに気付いた。
「烏吠」
「明朝、婚儀は実行する。お前がなんと言おうと、やめるつもりはない。長も、よろしいですね。」
「かまわん。遅かったくらいだ。蒼、今から準備を始める。お前は少しこのまま休みなさい。」
ですが、と烏吠は言った。
「私はついていきます。許さないと仰られても、もう決めました。大体、このように重大なこと、なぜおひとりでお決めになるのです。
私はもう、緑卯の長になる者として認められていたのではなかったのですか。未だにあなたは緑卯を任せられないと仰るか。」
「もうよい、好きにしろ。今回のことはお前が冷静に考えられるとは思わなんだ。蒼が絡めば尚更な。
お前が留守にするというなら私と喬珂が代わりを務めよう。」
疲れたかのようにため息交じりに言う祖父を見て、蒼は思わず言った。
「大爺、あの、喬珂をお願いします。」
長と呼ぶのも忘れて蒼が口にすると、口を歪ませた。
「まったく、私はこうなるのを防ぐために烏吠を据えたのだ。これでは何のためにあれほど探し回ったかわからん。」
呆れたように言うと、高く上った月を見て言った。
「今夜は月が赤い。烏吠、酒を抜いておけ。」
「・・・・・・」
去っていく祖父の足音が、蒼には少し気恥ずかしかった。烏吠の腕や胸が、急に迫ってきたように思ったからだ。
「ごめんなさい、烏吠」
「許さん。」
不機嫌に言い放つと、烏吠は蒼の着物を整えると、自分は蒼の床の上に寝転がった。
「隣に来い」
大人しく従うと、烏吠は蒼を横たえて、抱き締めた。
「私はもう、お前を妻のように思っていた。だから、長よりも、私を近しく感じていると。独りよがりだったようだな。」
「違う、心配させたくなかったの。だって、こんなこと、言ったら、烏吠は・・・・・」
「私がお前を遠ざけると思ったのか。」
蒼が烏吠に身を寄せると、烏吠は驚いて言った。蒼は、ずっと烏吠が妻にしてくれないことを、悲しんでいた。それを、烏吠は
今日、思い知ったのだ。やっと、蒼は顔を上げると、烏吠の額に手を伸ばした。
「だって、私が烏吠に触れると、烏吠は驚いたような顔をするし、今日まではもしかして他の娘がすきなのかもと本気で思ったりもした」
「なんだって」
烏吠の髪に手を差し入れて、蒼は泣きそうになりながら囁いた。
「私は、ずっと、こうして欲しかったのに。いつもいつも」
烏吠はそこまで言わせると、蒼の唇をふさいだ。樒の香が、二人を包んでむせ返るようだった。
「いとしい娘、私の蒼」
そう言うと烏吠は蒼を強く抱きしめて、何度も口づけた。先ほどの怒号で、蒼は震えるほど烏吠を身近に感じた。
今も、それは確かな余韻となって、蒼の感覚を強くした。
「本当はずっと、全部言ってしまいたかった。なにもかも」
「いとしい子だ、私の蒼」
張りつめた緊張の糸がふつりと切れて、蒼は唇を受けながら声を上げて泣いた。襲われる前に家を出てから今やっと、この人の胸に帰ってきたのだと
実感した。こうして赤子のように扱われるのは何も今宵が初めてではなかったが、これほど人に縋って泣いたのは幼いころ以来初めてだった。
「かわいいかわいい私の娘。」
低く、よく響く声が、蒼の体を解していった。口づけは甘く、言葉は赤子をあやす様な口ぶりでも、烏吠の仕草は恋人のそれだった。
そのまま抱いてしまいたかったが、烏吠は明日の夜まで待ってやることにした。
「明日、私の妻になってくれるか」
「さっき、やめるつもりはないって、」
「そうだ。だが先刻のあれは少々格好が悪いだろう。怒鳴って言う言葉じゃないからな。」
「でも嬉しかった。」
烏吠に抱きついて大きくため息をつくと、蒼は烏吠の胸元で、
「大好きよ」
というと、意識を手放した。安心したのだろう、蒼は深い眠りを得て満足げな表情だった。
「私も、お前が愛しい。」
胸が絞られるような幸福感に、烏吠はしばらく寝付けずに、布越しの赤い月を見上げていた。
庭で、羽陽は膝に顔を埋めていた。
「なにやってる」
喬珂の声に、羽陽は呻くように返事をした。
「冷やかしなら帰れ、慰めもいらん。」
違うさ、と言いながら喬珂は羽陽から酒を奪って飲んだ。
「慰めが欲しいのは私だ。」
羽陽は顔を上げると、酷い表情で言い捨てた。
「烏吠を殺したい、お前だってそうだろう」
そうさなあ、喬珂は月を見上げながら言った。
「今はまだ、いい。問題は明日の夜だ。侍女どもが走り回って支度をしてやがる。」
近くに、長くいすぎたんだ、と泣きそうな声で言う羽陽の肩を叩くと、喬珂は近くにいるはずの卦兎に声を掛けた。
「みんな、今頃そう思っているんだろうよ。」
卦兎の声が案外近くに聞こえた。
「今宵は祝い酒を飲まれた方と、そうでない方に分かれてしまったようですね。」
後ろから出てきた卦兎に、羽陽は言った。
「お前は酒を飲めないからと言って、当てつけているな。根性の悪いやつだ。」
卦兎は珍しく声を上げて笑うと、髪飾りを鳴らして傍に腰かけた。
「酒を飲みたい時というのはこんな時でしょうね」
三人の後姿を見て、長は苦笑いをすると、部屋を振り返って目を閉じた。
「蒼は、必ず緑卯に戻ってこれるだろう。我ながらよい娘に育ってくれた。」
亡き妻に見せたいほど、美しく育った。まだまだ小娘だが、きっと蒼の母も、誇らしく思うだろう。どんどん美しくなるのは目に見えている。
だからこそ、今回冗荏にいかせることは、烏吠に言われるまでもなく嫌だった。
しかしもう時間がない。術を見つけられなかった自分が招いた最悪の結果は、明日、蒼を最高に幸せにするのだろう。全てが皮肉だった。
羽陽の啜り泣きと慰める喬珂の声が、長の耳に届くと、思わず口を綻ばせてしまった。
「まったく」
「・・・・・喬珂も・・・・・・・行かせるか・・・・・。」
喬珂の背を見ながら、長は眼を伏せて言った。深いため息は、夏の夜に人知れず消えていった。
やがて、酒で寝入った三人に、赤い月は包むように光を浴びせた。緑卯の夏が、笹の香を撒き散らして、酔った男たちを優しく慰めていた。
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