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「盃は、赤く、淵は金と緑を混ぜたものを。料理は海のものと陸のもの、上手く扱える者を呼べ。今回は友好を示す宴だからな」


阿木は侍女と、部下に宴の指示を出していた。

「酒は葛と一緒に出せ。海からの客人だ、葛は貴重だろう。酒といくらでも食えるようにしておけ。」

宴は三日三晩開かれる。その準備は大層なものだ。阿木だけで準備をするわけではない。兄の迩莉も手伝ってくれているが、

今回この二人だけでは到底手をまわしきれない。初めて任された大役に、兄弟は父の機嫌をそこねることの無いよう、必死だった。

なにしろ、遠方からの使者たちだ。これを機に関係を固めておけば、緑卯を攻める時の下準備は出来たも同然。


緑卯は海に長けた一族だ。森に住んでいながら海に出ても力を発揮する。冗荏は長年これに苦しんできた。

冗荏が緑卯に固執する理由、それはおそらく何代か前の巫女の騒動の時に発端があるのだろうが、それだけではない。

森だ。森の魔力、これは海に近い開けた土地に住み、林の中で食物を得て生活してきた冗荏の者には未知の領域だった。

しかし、森の魔力なるものを操って富を築いてきた緑卯の土地に、冗荏は憧れとも憎しみともとれぬ思いを抱いていたのだった。

しかし、火枝という女が来て、その憧れは現実のものとなるのかと思いきや、冗荏には今以上の繁栄はもたらされなかった。

火枝の力を期待していた者たちはやがて、緑卯の土地に力の源を感じ、土地を取り込むことを夢見たのである。



しかし、火枝の一言で、冗荏は緑卯へより強い憎しみと妬みを抱くことになった。



「緑卯は永遠に不可侵の土地。お前たちなどでは歯は立たぬよ。今以上の富を望めば必ず滅ぶ。それを知らぬ者に繁栄は訪れぬ。」



本来ならこれで火枝は八つ裂きにされてもおかしくなかった。しかし、赫がそれを救ったのだった。あの、不気味な男。

阿木はあれが苦手だった。兄は彼を尊敬し、何度も館に入っては口をきき、その度に阿木にその素晴らしさを語るが、

阿木にはどうしても近寄る気が起きないのだった。



「香はどうします。海からの客であれば、香はそう珍しくもないのでしょうが。」

「香は国を表す一番の印だ。採れうる限り最高のものを用意しておけ。まだ時間はある。」

阿木は今回この大役に関してだけではなく、赫に会うことになっている宴自体が憂鬱なのである。

あの不気味な気配、200を超えてなお生き続ける不可思議さは、阿木にとっては気持の悪いものでしかなった。


夏の日差しはまだ刺すようにまっすぐで、阿木は海からの使者を迎える為の部屋を整えるために神殿に向かった。

石の神殿は、夏でもひんやりとして、子供のころはよくここで書を読んだり、昼寝をしたりしたものだ。

壁は見事な細工がされていて、父はどこからかよその使者が来ると必ずここへ通して見せるのだった。


だが、阿木はそれが嫌だった。ここはずっと自分の秘密の場所のような大切な空間だった。


抜け穴や、大昔の装飾品の忘れ去られた部屋、埃を被った地下室。

それらすべてを暴かれるようで、どこか不快なのだった。

足もとの草を踏み分けながら進むと、神殿が見えてきた。木々の影から踏みつけた草の匂いが阿木の肌に触れた。

その時だった。



「ちょっとあなた」

頭の上から声がした。驚いて見上げると、美しい髪を持った娘が薄藍の衣を体に巻き付けたいで立ちで大木の枝の上に座り込んでいた。

「降りたいのだけど、降りれなくなってしまって。どうしたらいいかしら」

近くに梯子が横たわっていた。風か何かで倒れたのだろう。

「今一度、梯子をかけましょう。降りられますか」

かけながら聞くと、娘は微笑んで言った。

「助かります。ありがとう。今日はここで眠る覚悟を決めたところだったから。」

ゆっくりと梯子をつたって降りてきたその娘は緑の眼と、同じように見事な色の髪を持った乙女だった。海の民だろうか。

一週間ほど前、使者よりも先に王族が到着したと聞いた。たしか20そこそこの娘だと言っていたか。

たっての希望で冗荏を案内してもらいたいと、お付きの者と来たはず。

しかし屋敷の部屋で今頃は父と話していると思っていた。明日には使者が入る。それを前に、父がご機嫌うかがいに行くと言っていたからだ。


「あなたは、川嘩の姫様でございますか。」

手を貸すのも忘れて、阿木は衣を払う娘に聞いた。

「ああ、そうだけど、あなたの言っているのは四津樹姉さまのことね。私は倶璃というんです。四津樹姉さまの妹です。川嘩の姫、と呼ばれるほどの者ではないの」

「可愛らしい字です。私は阿木と申します。挨拶もせず失礼を、」

「やめて、四津樹姉さまと違って私は無官の小娘ですよ。あなたの方が地位は上でしょう、冗荏の阿木様。」

おや、御存知でしたか、と聞くと、兄上にそっくりね、と笑った。

「私もまだ無官も同じです。兄が後を継ぐでしょうから今後も変わらず。」

そうなの、と倶璃は言うと、阿木のすぐそばによって顔を覗き込んだ。いきなり傍に寄られた阿木は思わずその香にめまいを覚えた。

若い娘の香など、もうずいぶんと感じていなかった。


「不思議な色。冗荏の方はみな、瞳が美しいのね」

「あなたの瞳には敵いませんよ、倶璃様」


言いなれた褒め言葉ね、とつぶやいてつまらなそうに倶璃は背を向けると、梯子を木から下ろして言った。

「そういうの、嫌。長の血筋はみな口が軽いのかしらね」

「ほかに比べる方がいらっしゃいましたか」

阿木はくすりと笑って訪ねた。

「迩莉様、だったかしら。あなたの兄上は本当に口のよく回る方だったわ。」

「兄は美しい女性に弱いのです。不快な思いをさせてしまったのでしたら申し訳ありません。」


「あなたも、同じだわ」

倶璃は衣をはためかせながら、もう一度阿木に近付くと、一言ひとことを噛みしめるように言った。



「あなたも迩莉様と同じ。なにがそんなに、悲しい、のかしら、ね」



良く見るとやはり衣は細かい刺繍の施された高価な品だった。肌が透けるようで、倶璃はその緑の瞳を水の中に沈む森の濃い翡翠のように

輝かせていた。完璧なまでに夏の全てが、彼女の味方をしていた。美しい色彩に、阿木は眼を細めた。

助けてくれてありがとう、と打って変わって明るくほほ笑むと、倶璃は屋敷の方へ駈け出して行ってしまった。

本来なら自分が供をして送らねばならないのに。一瞬で去って行った倶璃の、香だけがいつまでもそこに漂っていた。

自分たちを悲しそうだと言った彼女に、阿木は一瞬で恋に落ちた。その言葉こそ、ずっと誰かに問うて欲しかったものだった。




宴の準備がほぼ整った夕方。父に呼ばれて兄弟は川嘩の姫君たちに挨拶をすることになった。形式上の挨拶だ。

「こちらが、四津樹姫、こちらがその妹君の倶璃姫だ。」

「阿木様、迩莉様、会えて光栄です。この度は無理を言って申し訳ない。」

美しいが凛として隙のない姫は、妹と共に頭を下げた。耳飾りや衣に縫い付けられたたくさんの美しい石が、

身動きする度に涼やかな音色を作った。結いあげられた黒髪は、勾玉で上に纏められ、白い首は目に芳しいほどだった。

目に引いた紅が、瞬きする度に蝶のように舞った。


「来て下さって、みな喜んでおります。どうぞ楽しんでください。」

迩莉は四津樹を見たあと、倶璃を見た。

「お初にお目にかかります、倶璃姫。私は阿木の兄で、迩莉と申します。」

「知っています、姉とお話なさっているのを、昼間見かけましたもの。」

「お恥ずかしい、見られていましたか。阿木にはもうすでに、」

「ええ、助けて頂いたの。」

「倶璃、おまえ一体何をして。」

事の顛末を説明すると、四津樹は眉をよせて妹を叱ると阿木に頭を下げた。

「申し訳ありませぬ。仮にも川嘩の姫ともあろう者がと呆れてしまわれたでしょう」

「いえ」


阿木はひとしきり笑うと倶璃へ近付き、膝を折った。

「倶璃姫は真、美しき方。花の精かと己の目を疑ったほどです。」

阿木は倶璃の手を優しく掴むと、手の甲にそっと口づけて言った。

「妻に、なって頂きたいと今夜申し上げては若い男の軽口だろうと笑われると分かっております。」

倶璃は真剣に阿木の顔を見つめていた。

「お帰りになるころにもう一度、私の心をお伝えしましょう。その時にお返事を頂きたい」


父も兄も、自分を凝視している。それはそうだろう。会って早々に求婚したのだから。しかし、阿木は今日の日を偶然とは思えなかった。

倶璃の美しさは言うまでもなく、一瞬で、賢い娘だとわかった。夢に見た、あの娘だと、阿木は確信していた。

しかし、喜びを抑えつけてひたすら倶璃との初めての会話を味わうことに徹したのだった。


「阿木様、あなた変な人ね。」

倶璃はため息をついて阿木と同じ目線になるべくしゃがみ込むと、私、もう好きな方が居るのよ、とあどけない表情で言った。

あなたもそうでしょう、知ってるわ、その眼は誰か大切な人がいる眼だもの。

そういう倶璃を、阿木はひたすら微笑んで見つめた。

「かまいません。ですが、あなたがいう私の思い人は、間違いなくあなた。あなたに好いた方が居ても、私は必ずあなたを妻にします。

私は、ずっと、あなたを待っていたのですよ。」

阿木の瞳に嘘がないと倶璃は思ったが、苦笑して立ち上がった。

「私は人に決められたりしたくないのよ。」

短いが、阿木にとっては完全な拒絶であった。四津樹はこらと倶璃を嗜めてひとつ頭を下げた。

「このような娘です。阿木様にご迷惑を掛けるわけにはとても。妹として可愛がってくださいませな」

四津樹が言い終わらぬうちに、倶璃は自室へと走って行ってしまった。

怒っていたようには見えなかったが、阿木に興味を示さなかったことを、わざと訴えたかのようだった。

それは、気が強く、奔放で賢い倶璃らしい行動のように思えた。

阿木はそんなところも愛らしいと頬を緩めたのだった。時に阿木は三十二、迩莉は三十五の夏の夜であった。





「四津樹」は部屋に戻ると「倶璃」の肩を撫でた。

「蒼、烏吠が来ても絶対阿木の前で気取られるようなことをしてはだめよ。」

「景様。あの男、少し怖かった。なんだか眼が逸らせないほどまっすぐで。ああいう人って少し話が通じないから怖いの。」

「大丈夫、若いのにあなたはしっかり任務を果たしてる。蒼だとは誰もわからないわよ、着飾っているということだけじゃなくて、

雰囲気も変わったもの。もちろん、私は着飾らないあなたも素敵だと思うけれど。」

「烏吠には見られたくないのに。羽陽にも、ね。」

そっと呟いて月を見上げる蒼を、景は微笑んで見つめた。

「新妻になったからかしら。ずいぶん美しくなったわ。烏吠が羽陽や喬珂を警戒するのもわかるもの」

自分の従弟である羽陽を、景は面白そうに笑った。

警戒なんかしてないわ、あの人たちが好きなのはお酒で、女の子には縁がないもの、と蒼は眉をよせて言った。



烏吠の腕から離れるのがこんなに辛いとは思わなかった。早く抱きしめてほしい。しかし冗荏にいるうちは不可能なことだった。

最後に送り出された時、烏吠はなかなか抱きしめた腕を離してはくれなかった。みんなが早く離せと冷やかすほどに。

あの時の烏吠の、

「傍にいる、分かるな」

と言った声を思い出すと見上げていた月が滲んだ。

烏吠は薄緑の衣を、真っ赤な紐で締めていた。後ろでさわさわと鳴っていた笹の葉が、烏吠の香りと混じって、旅立つ蒼の胸を切なくさせた。

行く、とあれだけはっきり言ったのは自分なのに、烏吠の前で目を潤ませてしまった自分が情けなかった。

心配させていたことを、信じられないとつっぱねていたような自分の今までの行動を振り返って、余計に苦しかった。

あの薄緑の衣を纏った烏吠の元に、いつまでもいたかった。それは少し、自分でも驚くほどの名残惜しさで、みなのいる前で口づけまでしてしまった。

烏吠は満足そうにしていたが、蒼にしてみればそれは必死であった。少しでも烏吠の感触を覚えて行きたかったのだ。

すぐに後を追うのだから、そんなに惜しまなくてもいいだろう、と喬珂がため息を吐いた頃、蒼はしがみついているような格好で、

烏吠はやはり今一緒に発つ方がいいのでは、と心配したのだった。烏吠の衣を撫で、蒼はやっと離れると、村の入り口まで走ったのだった。


走ってしまわないと、いつまでも烏吠の腕を求めてしまいそうだった。

こうして半月離れて、今はもう全身が烏吠を呼んでいるようだった。


「大丈夫?今夜はもう眠ったら?」

「景さま・・・」


声がかすれた。烏吠のぬくもりが恋しくて、まるで親を求める幼子のように心細かった。

景は蒼をしばし抱きしめると、つぶやいた。


「だいじょうぶ、だいじょうぶよ。もうきっとすぐそこにまで着いてるわ。きっとあなたが心配で、寝不足で目を赤くしているのでしょうね。」

くすくすと笑うと蒼を離して髪飾りを外した。

「さあ、もう眠って。美しい倶璃姫。」

蒼は頬に垂れた髪の向こうで瞬きをすると、婚礼の日に烏吠が贈った首飾りに触れてから、薄い衣に袖を通した。



油の灯りは外にも、廊下にも、部屋にもありすぎるほどだったから、知らない土地の暗闇に惑わされずに、烏吠の首飾りの輝きを見つめることができた。

真っ赤な石は、雫の形に煌めいていた。柘榴の色は火の揺らめきと共に踊った。指がそれを辿るうちに、

蒼は景の着替える音を聞きながらいつのまにか眠っていた。






翌日、使者を迎える為に迩莉が広間まで出ると、阿木がすでに待っていた。

「貴様、賓客をいきなり口説くとはいい度胸だな。」

迩莉はあの後説教を聴く間もなく退出した弟を睨んだ。

「兄上こそ、四津樹姫を口説いたそうですね、倶璃姫に聞きましたよ。」

礼儀のうちだろう、と言い返す兄の眼は不自然に苛立っていた。おそらく本当の狙いは倶璃であったのだろう。

四津樹よりも下位の妹ならばすぐに手に入る。しかしそれだけではなく、あの小さな娘は魅力的で、瑞々しかったのだ。

「兄上はそうやって女性に嫉妬心を植え付けてから口説くのがお得意でしたね。しかし今回はなんとも派手に失敗なさいましたな。」

ようやく顔を緩めると、迩莉は少し笑っていった。

「まったく、あの娘には参ったよ。初めて一瞬だけ見かけた時、眼を疑った。」

「あの、色彩にですか」

「そうだ。あれほどの色を持っている娘はそういない。まあ、だが私は完全に意識されていないようだな。」

「私もですよ」


兄弟はお互いの愚かな失敗を笑いつつ、使者と姉妹の到着を待った。


やがて、広間に10人の男たちを引き連れて、四津樹と倶璃が現れた。

「いやいや、長旅でお疲れでしょう、少々礼を欠くかと思いましたが、既に宴席を用意してあります。おかけ下さい。」

長の言葉にありがたい、と笑顔で口ぐちに言うと、男たちは胡坐をかいて、それぞれ酒の入った小さな卓の前に腰を下ろした。


「このようなお気遣い、痛み入ります。しかしここまでしていただいては・・・彼らは使者なのですよ」

四津樹が困ったように微笑みながらも次々と運ばれる料理や菓子に感嘆と称賛の声を上げた。

「使者は頭脳・家柄・地位と揃っていなければ勤まらないはずでしょう。そのような彼らにたかが冗荏の私どもが宴で無礼を働くなど、とても。」

長はひとしきり使者に労いの言葉を掛けると、四津樹と倶璃の方を見て、うなづいた。

「今回の王族の使者はとてもお美しい方々で、私の息子たちはあの歳にして落ち着きを失っております。どうぞ、数々の失言、失態をお許しください。」

「いいえ、許すなど。歓迎を受け嬉しい限り。私どももあなたのご子息方のお陰で心が休まりました」


倶璃は少し微笑んで黙っている。迩莉と阿木はじっとその瞳を盗み見た。やがて、酒と食事を本格的に楽しもうと、

二人とも使者たちの傍によって旅の話を聞いて回った。




蒼から見て、ちょうど左側の手前から三人目に烏吠はいた。胸が高まるのを抑えられない。

今すぐにでも互いに抱き合いたいのに、空っぽの社交辞令と歓迎の宴が邪魔をする。

涙が出そうなのを堪えようと、酒を飲むと、今度はのどが焼けるようで涙がこみ上げた。こんなに自分は弱かっただろうか。

知らぬ土地で知らず委縮しているのだろうか。自分を情けなく思った。

景に廊下へ少し出てくると言うと、用を足すと思わせて侍女の後に従った。



帰りに、人一人が立って居られるほどの、物見の窓と足場があった。そこへ立つと、風に当たりに来ただけだ、一人で戻れると言って侍女を追い払った。

烏吠を半月ぶりにみた喜びを、風で冷ましていると、




「冗荏の菓子は、蜜を使って練ったり、蒸したりしたものが多いのですが・・・・緑卯の菓子はどのようなものがあるのですか?」



急に、顔の近くに阿木の瞳と声が現れて、蒼はきゃ、と小さく声を上げた。


「すみません、驚かせてしまいましたね。」

阿木は真剣な目で、しかし蒼を優しく見つめていった。

「あなたは菓子が好きでしょう、先ほどは桃色の飴細工に目を細めていらっしゃった。」

「あ」

昨日と打って変わって静かな倶璃に、阿木はますますほほ笑んだ。

「おやおや、随分と私に見とれて下さっているようだ・・・・。嬉しいですよ。」

倶璃の口に小さな飴を一粒含ませると、いきなり深く口づけた。



「う・・・」


拒絶の声を発する倶璃の声は、宴の広間で誰に聞き咎められることもなかった。

誰の耳にも届かなかった。唇は蒼のやわらかな唇を覆い、その熱を奪い、自分の熱を与えた。

彼の唇は暖かく、蒼は驚くあまり頭が真っ白になった。

顎に掛った手は鋼のように頑丈で、彼の髪が自分の頬に掛っていることが、なぜか鋭い衝撃となって蒼を襲った。

眼だけは冷静に、阿木の背後にある赤い月を見据えていた。腕を掴む強い力が、月と同じ色をしていた。

烏吠、と呼んではならない名を口にしないように、やがて硬く目を瞑った。

抑えていた涙は、静かに頬を伝った。











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