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阿木は、倶璃の為に薬やら水やら、茶に衣に薬師などを集めて部屋を訪れると、客の眼が異常に冷たいのに気付いた。

「どう、か、なさいましたか」


一言しゃべると皆は肩の力を抜いて体を弛緩させた。

「いえ、何でもないのです。ただ随分遅いと思っていたのですよ」

烏吠は芭阿流としてあくまで礼を失することのないように答えた。

「ああ、申し訳ない。薬師の姿が見えず探していたのです。すぐにお部屋にご案内できましたか。

侍女に言い置いて出たのですが・・・」

倶璃の顔を覗き込み、四津樹を見、忙しなく問う阿木は先ほどの「阿木」とは根本的に違う瞳をしていた。

「ええ、すぐに通して頂きましたよ。」

烏吠は固い笑みを浮かべながら蒼の方を見て濡れた布で額を濡らす薬師を見守った。

随分と歳を取った男だが、腕は確かなようで、症状を聞いて心配ない、と一言、大声で言い放った。

花の香りがしていた、と阿木が伝えたので、原因がホノメだとすぐに言い当てた。


「庭でも散歩していて、いたずらに口に含んだのだろうよ。あれは一輪でも眠気に襲われる。二輪で半日目覚めなくなる。それ以上は腹を壊す。

だからこの方はきっと二輪ほど摘んだのだろう」

おかしそうに微笑んで、薬師はしゃがれた声で寝ていれば大事ない、と言い置いて出て言った。


「火馬はほとんど果実に近いような格好の花です。香もいいので実だと勘違いする者も多いとか。」

「なるほど。」


芭阿流はやっとそれだけを言うと、もう人目も憚らずに蒼の額に手を載せた。

「なにやら、」


阿木が静かな声で少し不満そうに溢した。

「あなたは倶璃姫とは特別な仲だと見えるが、お聞きしても良いことだろうか」

不満そうながら柔らかい笑顔は歳相応の大人のものだった。烏吠は自分よりも年上の男を見つめた。

「ええ、小さい頃から見知っておりますから。妹のような、娘のような、というところですか」


あきらかに見当違いの答えではあったが、それが尚更に阿木をあせらせた。


「なるほど。では恋人というのはどういった方か御存知のはず。背は高いですか、それとも逞しい男ですか。髪は、どのくらいでしょう。」


芭阿流はくすりと笑うと、

「いや、よくは存知ませんな。この娘は口が堅いもので。」

とだけ言った。



「羨ましいものです。」

と声を上げて笑う阿木はすっかり芭阿流が倶璃の恋人だと見抜いているらしかった。


あとは、貴方がたにお任せしましょう。そう言って阿木は倶璃のもとへ跪き、手を取って口づけた。

手を握って、では、とだけ小さな声で呟いて出て行った。








烏吠はどっと疲れるのを感じて、「倶璃姫」の寝台へ腰を降ろして皆を見まわした。

喬珂と羽陽は席についたまま、溜息をついた。

「さて、これからどうするか、だ。」


烏吠の低い声に、景は立ち上がって酒の入った瓶を煽った。

「決まってるでしょう」

羽陽は従姉を驚いて見上げた。瓶の酒を一気に飲みほしたからだ。

「相手がああやって姿を現したのは、無駄だと言いたいからだろうけど、私たちの力を甘く見てもらっては困る。

あの男が使っている力の本家はこちらなのよ。億することはないでしょう。」



「だが」

喬珂は顔をしかめた。

「まるで、嫁に迎えることだけが目的であるような・・・・違うのだろうがな・・・・蒼への好意は本物だ。しかし何かが透けて見える」


「関係ない」

烏吠は最高に機嫌が悪かった。

「殺すだけだ。それ以外に意味はない」

景の方を見て言い放つと、景は烏吠の様子に満足げに頷いた。

それを羽陽は眼を細めて見つめ、喬珂にしか聞こえない声で、つぶやいた。

「図られていたのはこちらだったのだな・・・・・」

景が羽陽の言葉を聞き返そうとした、その時だった、蒼が身じろぎして、烏吠を呼んだ。



「烏吠」


どうした、と血相を変えて顔を覗き込むと、意識はないようだったが、はっきりと口にした。

「逃げて、みんな連れて、帰るの。それで、」


目じりから涙が零れた。

「大好きよ」




烏吠は身を屈めて口づけると、首筋に顔を埋めて囁いた。

「私もだ。眠れ、傍にいる。」


喬珂はため息を付いて苦笑いをしながら、羽陽の眼をふさいだ。

「よせ、馬鹿が」

羽陽は吐き捨てるように言って拗ねながら顔を背けると、烏吠に言った。

「交替で番をしよう。月があと二回傾くまで。」

烏吠は頷くと、ひとまず蒼を抱いて目を閉じた。





もう、するべきことは決まった。目覚めたら、それを実行に移すだけだ。





蒼のすぐそばに居られることに、今は感謝せねばならなかった。


景は隣の部屋から運ばせてあった寝台に横になり、羽陽に言った。


「ひどい顔ね」


羽陽は深く息をつくと、首を振って顔を伏せた。






蒼は、よく分からない夢の途中で揺さぶられると、ぼんやりとした意識のまま目を開けた。

「蒼」

烏吠が自分を腕の中に抱き起こしながら呼びかけていたのだった。

「烏吠」


腕を首に回すと、安堵で溜息が零れた。

「うなされていた・・・私のせいだな。怖い思いをさせた」

本当にかすかに、囁くように言った烏吠は、どうやら寝ている者の為に息を潜めているらしかった。

窓からまだ暗いが、青白さを増した空の光が忍び込んでいた。暗い部屋の中で、蒼はゆっくりと烏吠に言った。

「知ってるの?全部?」

「ああ」

自分が味わった恐怖がなんなのか、蒼は意識を取り戻してすぐに見て見ぬふりをしていた自分に答えを出したのだった。

「あの人、あのひとが、赫なの?」


蒼は耳元で誰にも聞こえないように話した。

「そう、だ。しかしお前を部屋まで運んだのは、阿木だ」

すると、どうやら見当違いの怒りを阿木に向けていたらしい。彼は純粋に心配して自分を運んでくれていたのだ。

では、やはりホノメを飲ませたのが赫なのだ。あの忌まわしい夜と口づけが蘇って、肩が震えた。なぜあんなことをされたのか。

純粋に愛されているかのような声音、しぐさ、口づけだった。しかしそれは火枝への思いで自分への思いではないはずだった。


生まれ変わりだということを信じていれば、それも説明が付くのだろう。しかし何かが違う気がしていた。あの手を拒むことを躊躇ってしまうほど

赫のあの振る舞いは暖かく、どこか懐かしいと思わせる何かがあった。そう思ってしまう自分こそ、忌まわしかった。

「烏吠。烏吠」

とにかく今はあの男の感触を消し去りたくて、烏吠に強く抱きついた。胸が詰まって、溜息ばかりが出る。苦しい。



自分はあんなに自信があった。過信していたわけではない。しかし自分の力できっと自分の窮地くらいは救えるはずだろうと思っていた。

だが、実際には赫に音もなく忍び寄られ、接触を許したのだった。あの時、もし赫が蒼を殺す気だったのなら、もう今頃、自分はこの

腕の中にはいないのだろう。もしかしたら、口づけと抱擁の裏に、殺気を隠していたのかもしれない。蒼は必死で赫の残像を振り切った。

「すまなかった。一人にするなど…許せ」

「私が、勝手に…」

息が苦しいのでしゃくりあげるようになってしまう。蒼は少し口を噤むと烏吠の顔を覗き込んだ。

「…これからは傍から離れないようにする。もう、赫から身を隠すことはできないし、

そもそもここから出られるのかどうかもわからない。考えなきゃ。どうしたら、」

不安そうな声で言うと烏吠が遮った。

「いい、今は少しじっとしていろ。」



でも。



蒼はとにかく不安だった。赫のあの穏やかさが、なぜか別の何か恐ろしい物を示している気がして、余計に恐ろしくなるのだった。

「大丈夫だ。策はある。むしろ、阿木や迩莉は気付いていないようだ。となれば赫は捕えるつもりはないのだろう。」

ではあの人は一体何が目的なのか。ますます分からなくなってくる。赫の顔を思い出しては考える。もちろん答えなど出るはずもなかった。


俯いて、烏吠の衣の皺を眺めていた時だった。喬珂が表情の読めない顔で隣室から入ってきた。

「馬鹿者」


顎を掴むと喬珂は目を覗き込んでしばらくじっとしていた。


「喬珂」

烏吠が低く名を呼ぶと、黙れ、とだけ口にした。

蒼はだんだんと顎に掛った手が震え始めたのを感じて、申し訳なくて視界がぼやけるのを感じた。

「喬珂、ごめんなさい」

声は少し震えて、最後にはやはり涙が溢れたが、拭いもせずにまっすぐ見つめ返した。


烏吠はきっと、喬珂の手の震えに気付かないのだろう。でも蒼には分かった。きっとひどく心配させてしまったのだと。

「もう少し眠れ。馬鹿」


少しだけ頬を緩めると、不機嫌そうに戻って行った。









朝起きると、空は銀色で日の光はうっすらとしか届かなかった。雨が降っているわけでもなかったが、水分を含んだ空気が冷たかった。

朝と言ってもまだ早朝だ。眠い目をこすりながら蒼は窓から離れて烏吠のもとに戻った。すでに装いを改め、いつでも外に出られるようにしてあった。


予定よりも滞在を早く切り上げて、蒼を冗荏から出す、と烏吠は決めた。

蒼は納得できないというように烏吠にすがりついたが、許さなかった。



赫の狙いは蒼なのだ。まず遠ざけなくては意味がない。恐らく赫が狙うのは阿木が正式な場に居るときだろう。そこで滞在を伸ばすように勧め、

時間を稼ぎ、蒼を阿木の嫁として奪うつもりだ。赫が赫自身として今更嫁をとることが不可能であり、国内で目立つことを何より望んではいないはずだった。

あくまで阿木として赫は蒼を手に入れ、阿木としてこの国を動かすつもりだ。であれば、赫ではなく、阿木自身に出国を告げなければならない。

それも個人的に、だ。公的な場では不可能だ。


そう大まかに、不自然なほどに烏吠が落ち着き払って全員に説明を終えると、有無を言わせず蒼に支度をさせた。











使いを出し、阿木と迩莉を呼ぶと、彼らは寝巻きに礼装の上着だけを羽織った格好で走ってやってきた。

「御無礼を。急いで参じましたので。して、倶璃姫はいかがか」

体調がひどく悪いと伝えたのが功を奏したのか、阿木は真っ青な顔で息を切らしてやってきた。

「申し訳ない、このような時間に。倶璃の容態が悪いのです。ホノメのせいではないようだ。国に帰れば薬があるのだが・・・・」

「なんという薬でしょう。この国で用意できるものならば私が手配しよう」

迩莉は冷静に、しかし倶璃を覗き込むようにして表情を厳しくさせた。

いや、と四津樹が首を左右に振っていった。

「これはわが国の問題です。まだ同盟も結んではおらぬのに、倶璃の面倒をこれ以上見てもらうわけには参りませぬ。」

確かに、これ以上は余計な干渉になる。治療というのは国によって千差万別。自国の治療を欲す賓客を留めおくのは同盟においては賢い選択ではない。

命に関わる場合は尚更だった。他国でいのちを落とせば例え落ち度がなくても戦に発展する可能性がある。ホノメのせいで倒れたのだとわかったから、

昨夜はそれで終いであったが、症状が悪ければ昨日のうちに国を出ていてもおかしくはなかった。国同士の医学に関する知識は同じ水準で進んでいるとは

言いがたく、情報の交換も行われていない。技術や知識について一切干渉しないのが戦を防ぐ方法だからだ。


というのも冗荏の知識欲は、かつては人を殺してでもというほど凶暴なものであったから、周辺他国が大昔の戦を敬遠して警戒策を取ったのである。

事実川嘩も緑卯も、互いに他の国からの情報や技術を取り入れて生活している。そこには収穫時の知恵や作物の種、塩や糖類、織物、細工品といった「値段」

がつけられるが、事実上は普通の流通よりも高く付くものではない。それで上手く折り合いをつけるのが長の役目であり、それができていなければ川嘩も緑卯も

同盟など結んではいない。たとえ血筋が同じ一族であっても、国同士の交流ともなればそれなりに整った体制が必要になる。

しかしこの二国間でさえ医療の面では慎重に事を運ぶ。郷の水の影響は大きく、無理に長居すればやはり命に関わる。


冗荏はそういった意味で、特に孤立化が進んだ国なのだが、今回の同盟で戦の後ろ盾だけでなくそうした国力の改善も視野に入れていた。だからこそ、

ここで賓客に病人が出れば丁寧に送り出す以外の選択肢は残されていない。

「我々としても協力は惜しまないと言いたいところです。しかし、今は送り届けて差し上げるほかないでしょう。支度を致します」

迩莉が阿木とともに退出すると、烏吠は喬珂と羽陽に向き直って言った。


「卦兎に連絡を取れ。それから、私の部下が5人、それぞれに千ずつ国の周りに待機している。その内の円蒔(えんじ)という男の隊を半分、出迎えとして

用意させろ。蒼と景が出る時に10人だけ私と共に神殿に来るように伝えろ」

「やめて、おねがい」


悲鳴のような声はもう嗚咽に近かった。

「大丈夫よ、心配ない」

景の声を聞いてますます蒼は苦しく喉を鳴らした。


「烏吠、やめて」

烏吠は一通りの用意を済ませるまで蒼を見向きもしなかったが、漸く膝をついて蒼の傍らに座ると、ゆっくりと言い聞かせた。

「いいか、赫の狙いはお前だ。だが、殺す必要があればすぐにでも殺せた。しかしそれをしなかった。なぜだか分かるか」


「・・・・・」










「蒼、お前は賢い。だからこそもう、気がついているだろう」











いきなり事実を突き付けられて、蒼の頭は否定しかしなかった。頑なになっているのが分かったが、震えは止まらなった。


わなわなと震える自分の肩がひたすら遠く感じられた。烏吠の腕を掴む手を、彼が自由に動けるようにそっと離した時、穏やかな絶望は烏吠の肩越しに

すぐ近くに迫っていた。もう、遅かった。


「烏吠、早く支度をしなければ。時間がない!」

景が上ずった声で呼んだ。喬珂や羽陽は伝令を出し終えて、入り口で待っている。あとはもう蒼を運んで広間から輿に乗せて出るだけだ。

烏吠は蒼の青白い頬を撫で、勢い良く立ちあがると一言静かに呟いた。

「目を、閉じていろ」



どっ、という音と共に烏吠が投げた小刀と喬珂が近寄って振り上げた刀が重たく体に刺さる音がした。蒼は目を見開いて、一度も目を閉じることをしなかった。

「う、あ、」

口から血を出して床に腹ばいになり、手は喉を掻き毟っていた。苦痛が顔を醜く歪ませ、目は既に死の色に濁っていた。

口から流れる血の量は増え続け、緋色に塗りつぶされた衣はもう見る影も無かった。ぐうぅ、と気味の悪い音が喉から零れて

蒼は息をするのも忘れた。荒い息遣いと床を打つ手のひらの湿った音が響き渡った。

「蒼」

見るな、と傍らでひとり羽陽が袖で蒼の目を覆った。






くらくらとする頭の中で、血の匂いに混ざってホノメの香りを嗅いだ気がした。

やがて景はこと切れて、血だまりだけが広がっていった。

やめて、と言ったのはこれだった。自分でも薄々分かっていたことだ。しかし、こうなってみて初めて、自分がやめてといった理由をはっきりと知った。


泣き叫んで景へ手を伸ばす蒼を、羽陽が羽交い締めにして抑えた。



羽陽の腕が強く力を込めれば込めるほど、蒼は宙へ投げ出されるような絶望に叩きつけられるような気がした。

それは、突如現れた絶対的な死の香りに酔ったからではなく、動かすことのできない始まりを感じたからかもしれなかった。




何かが始まる。この始まりを、死がこれ以上ないほど美しく、力強く奏でる様を、その場の誰もが耳にした。











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