「さず」

名を呼んで、首の毛並みを撫でると、抱きあげられたまま、向き合って瞳を覗きこんだ。

「きてくれて、ありがとう。嬉しい。一緒にいてくれる?」

「そのつもりで、きた」

烏吠は呆れたように空を仰ぐと、息を吐きながら佐塗と呼ばれた男を見て言った。

「お前が佐塗か…!」

佐塗のことは烏吠も知らないわけではなかった。

蒼が会いたい、会いたいとふとした時にいつも口にするのは、思えばこの名だけであった。

会いに行けばいい、と佐塗の名を初めて聞いた日に、そういったのを覚えている。

一緒にその佐塗とやらのところへ行ってやろう、と幼い蒼に言ったのだ。しかし目にいっぱいの涙をためて、首を振るのだった。

あとで長に聞けば、佐塗は昔、緑卯に定住していた一族のうちの一人だった。蒼の面倒もよく見て、知恵もあり、教養もあり、

なにより戦力になる貴重な存在だった。しかしある時一族と共に緑卯を出て行った。大きくなり過ぎた一族を、

緑卯の土地に留め置くのは無理だと彼らの頭が判断したのだ。当然、緑卯は広い土地で、ひとつ氏族が拡大したからといって何の影響もなかった。

彼らなりになにか考えがあるのだろう、と長は言っていた。それが明らかになったのは最近の話で、緑卯を外から守護するのが本来の目的であり、

それを長も黙認していたのだという。そして依然として強い繋がりを持っているのがこの白狼たちであった。

外からの守りを得るというのは非常に有利になる。しかしそれには一族を固定し、常に武を強いることになる。

だからこそ長からそれを命じるのは躊躇われたのだろうが、彼らは一族の意思としてそれを実行していたのだ。

それが分かってから緑卯は必要な時は彼らの生活を保護し、主に食料の供給をすることになった。事実上は緑卯の民であった。

しかし、それもあくまで国と氏族の関係であり、蒼と佐塗は別だった。容易に会うことは叶わなくなり、もうずっと彼の姿を見ていなかった。

彼らの総領が緑卯に足を運ぶことはよくあるが、その総領の息子である佐塗はもう何年も緑卯には来ていなかった。



「ひめ」



低く、よく通る美しい声で佐塗は蒼を呼んだ。目を細めて彼女の手が耳を撫でるのを心地良さそうにしながら、言葉を続けた。

「おおきゅうなられた」

涙を浮かべた赤い目で蒼は彼を見つめた。ずっと会いたかったのだ。これほど会いたい人はいなかった。やっと会えた。

太い首に腕を回して深く呼吸し、ゆっくりとその腕から降りた。

「人型じゃなくても、いいのに。無理はしないで」

「無理ではない。なかなか気持ちのよいものだ。最近は、走る時だけ獣に戻るようにしている」

大きな手のひらを蒼の頭に乗せると、烏吠の方を見て、軽く頭を下げた。

「急ぐのだろう。指示を」

ずっと呆れたまま見守っていた烏吠は、弾かれたように目を見開くと、穏やかな声で佐塗に言った。

「警固を、頼む。そして、戦の準備を」

「承知した」




その後は、何事もなく緑卯に戻り、みなに元気な顔を見せることができた。準備は思っていたよりも進んでいて、

もう一日を出立準備に費やさずとも日の出と共に出発できそうなほどだった。

喬珂が先に緑卯に着いたことも大きかったが、恐らく景の兵に傷つけられた時に帰した者たちの話を聞いて、長が判断したのだろう。

冗荏に出かけた時から、警戒態勢を取っていたが、それがまさか本当に功を奏すとは考えていなかった。川嘩の偽りの同盟を元に、

冗荏という脅威を払拭することができるはずだったのだから。しかし実際に脅威であったのは川嘩で、冗荏の赫に烏吠たちは救われたようなものであった。




馬を休ませ、食事をし、服を着替え、烏吠は喬珂、羽陽、佐塗、使者として冗荏に共に向かった10人と連れだって長の部屋に入った。

ひと心地ついたからか、道中の興奮は幾分治まったが、それでも目が冴えて昼間だというのに深い夜を過ごしているような疲れを感じた。

蒼を無事に連れ帰ることができるかという長時間の緊張と不安のせいもあったが、なにより赫の存在が気になって落ち着かない。

味方なのか、敵なのか。

冷静に考えれば、景が蒼を殺そうとしていることを烏吠たちに耳打ちし、烏吠の目を真の敵に向けさせた赫は味方と言えるかもしれない。



なにより、ホノメを飲ませたのは術を解くためであった。蒼が倒れ、運ばれた部屋に入ってそれはすぐに分かった。阿木の姿をした赫が、


蒼に静かに近付いたのは外でもない、自分の術の回収であったのだ。頭では分かっていても当たり前のように寄り添い、同じ花の香りを纏い、

烏吠には我慢ならぬ状況であった。猫のように足音を立てず、知らぬうちに自分の妻に接触したのである。当然といえば当然の悋気であった。



冗荏に行って良かったとは思わない。しかし実際にあの国の土を踏んで得られたのは、予想外にも川嘩の実像であった。

冗荏が同盟を持ちかけたのだと聞かされていたが、その実結託を提案したのは川嘩であった。それを赫に聞かされた時は袋の鼠だとも思ったが、

結果的には緑卯にとっては収穫の多い滞在となった。国を守り、民を守り、蒼を守る時間を得たからだ。

あのまま気付かずに居れば間違いなく冗荏で正体を暴かれ殺された挙句蒼を奪われるか、冗荏からの帰り道に川嘩の兵に不意打ちを食らうか、

のどちらかだったはずだ。蒼を救う為、川嘩の企みに気付かせるために赫は自分たちを呼び寄せた。

最初からそのつもりで手のひらで転がされていたかと思うと腹立たしかったし、命を救う為とはいえ蒼に重い術を掛けるという方法で

自分の存在を追わせたのは危険すぎる策だと腸が煮え繰り返るようだった。しかし結局自分は何もできず、赫のやったことが全部国の為となったのだ。

これが味方でないなら何だというのか。ますます分からない。冗荏を出る時も、赫は姿を現さなかった。まるで何もなかったかのように。








「よく帰った」

短く静かな声で言い、部屋の上座に腰を下ろすと、長は衣の長い裾を手で横へ押しやった。烏吠は顔を上げなかった。一番わからないのはこの長だ。

全部、知っていたのではないのか。川嘩のことも、赫のことも。冷たく沈んだ心の底にあるのは、きっとこの男への猜疑心なのだろう。


「挨拶もそこそこに、申し訳ありません。お尋ねしたいことがございます」


烏吠は顔を少しだけ上げると、彼の衣の裾をにらみつけた。わからない。この私にわからない、などと…次期の総領にそのような疑心を抱かせるのは

長としては得策ではないはずだ。何を考えている。烏吠はもう礼儀もみな取り払って怒りを隠そうともしなかった。

「わかっている。烏吠。しかしな、お前の疑いも尤もだが、今回のことは私にも予想外だった。それは事実だ。

だが、お前が知りたい思っているとすれば赫のことだろう」

「川嘩が裏切ることは知らなかったと申されますか」

「当たり前だ。知っていたらわざわざ孫娘をそんなところへやるか」

ため息交じりに言うと、観念したように長は口を開いた。

「赫は、おそらく本当の意味での敵ではないのだ、とは分かっていた。どうだ、これでお前は納得できるか」

「私への信頼は皆無なのですね。孫娘を預けるというのにそのように大切なことをなぜ黙っておいでだったのです。

私をお認めではないとみえる。そこまで私を信用していないのならば、婚儀を挙げさせたのはなぜです」

「待て待て、信用していないとは言っていない。確かにお前は若い。しかし、その歳で役不足などと思ってはいない。

しかし赫については確信がなかったのだ。だからこそお前にも、息子たちにも打ち明けることはしなかった。

だが、恐らく赫が蒼をおびき寄せるには理由があるのだと分かっていた。術も、重いものではあるが赫に近付けば解けるようなものだったからな。

解くのを前提に掛けたとしか思えなかった。しかし、私が行かせるのが遅れれば死ぬところだ。完全に安心はできないままではあったが、」



「なんと仰いましたか」



「喬珂」

話を黙って聞いていた喬珂が堪らず立ちあがった。顔が上気して今にも怒鳴り散らしそうだった。烏吠ほど気が長い男でないことは皆知っていた。

「この分では隠していることはこれだけではなさそうだ。あなたがしていることは、確信の持てない状況の中に蒼を投げ入れて、

恋人と結ばれたばかりの幸せを引きちぎり、奪い取るようなものだ。あなたはあの娘がかわいくないのか!」

最後の方はほとんど怒鳴っていたが、だれも止めなかった。長が微笑んでいたからだ。

「かわいいとも、亡き娘の忘れ形見、唯一の宝よ。だからこそ、今回に賭けたのだ。どちらにせよ、赫には引き会わせねばあの子は死ぬ運命だったのだ」

「だが、言わないことが多すぎたように思う…情報があれば、俺たちももっと効率よく動けたかもしれないだろう」

羽陽は恨めしそうに口にした。烏吠は黙ったままだった。

「術は病のようなものだ。確信の持てない病の根源についてとやかく言っても始まらん。治療が最優先だからな。

手荒だったことは認めるが、仕方ない。そもそも赫のやり方が手荒だったのだからな」

「しかし放っておけば死ぬような術を掛けた相手のところへ、よくも送り出す気になりましたね」

他の者が口を挟むと、長は少し照れたように笑った。

「まあ。行かせると言えばこの男共が付いていくと言い出すことは目に見えていたからな。それならば心配するには及ばんと思っていたのさ」

「よくそんなことを言えるな、結果的に助かったから言えることだ、くそ爺!」

喬珂はもう口の利き方も気に留めず、苛立っていた。

「もう、よい」

烏吠が疲れたように呟いた。喬珂はもっと苛立って、食ってかかった。

「なにが、もう、よい、だ。貴様それでも総領の自覚があるのか?蒼の妹背か?いいかげんにしろ、もっと言いたいことを言ったらどうだ。

貴様が不甲斐ないと、一番不安になるのはあいつなんだぞ!!」

「もう、よい、喬珂」

「烏吠、」

羽陽が喬珂を怒らせるな、と声で訴えると、烏吠は立ちあがって長へ向かって目を上げた。

「もう、よい。あなたは私を信用していなかったわけではないのだろう。それに、方法もこれしかなかったのは分かる。

納得したわけではない、ただ、もうこれ以上言っても詮無いことだ。だが、権限は委譲していただく。今回の退避が終わり次第、すぐに」

「もとよりそのつもりよ。お前は私に慎重さと判断力が欠けると思っているのだろうが、それは事実だからな」

陽気に笑って言う長を尻目に、烏吠は軽くため息をついた。

「では、」


「だが履き違えるな、長はまだこの私だ。条件がある。赫と話し、あの男の真意を聞きだし、冗荏との関係を修正するのだ。

それができれば長の翠玉を譲ろう」


翠玉は長の資格として与えられる首飾りだ。透き通ったその色は緑卯そのものを象徴する宝である。

それを委譲されて初めて烏吠は長に正式に就任できるのである。

しかし、冗荏との関係修復を条件に出されればそれもまたすぐに、とはいかないだろう。

「わかりました、退避からほとぼりが冷め次第すぐに手配いたします」

烏吠は投げ捨てるように言うと、彼にしては珍しく苛立った様子で退出していった。

後にはまだ怒りの冷め遣らない喬珂と、彼の様子を窺う者たちが残された。

「やれやれ、喬珂、お前も退出してよいぞ」

長の口にごまかされずに喬珂はうなった。

「あなたはあの娘を死なせるところだった。行かせるにしてももっと安全な方法があったはずだろう。

長として知りすぎていることが、それを阻んだとでも言うか。この腹黒爺が!」


羽陽は額に手を当てて、もう止まらない喬珂の暴言を黙って聞くことにした。

もうこうなったら言いたいことを言うまで喬珂は誰にも止められないと知っているからだ。

当の腹黒爺は真剣な瞳で喬珂の言葉を受け止めているようだった。衣の裾を撫でると、静かに口を開いた。

「私とて、行かせたくはなかった。だが、お前がそう怒るのも、尤もだ。お前たちがいなければ烏吠も蒼も危なかっただろう。

それくらい危険な旅だった。実際に今、緑卯へ帰りついて、お前は私の短慮がますます腹立たしいのだろう。

理解はしているし、私が正しかったとはきっと死ぬまで思わぬ」

「爺」

羽陽は静かに相槌を打った。もう、喬珂も怒鳴り返さなかった。

「だがな、本当に、分からなかった。時間もなかったし、混乱させたくもなかった。

安全に気を取られて、あの娘の息絶える様を見たくはなかった。それだけでここまで無責任な決断をしたのだ」

いっそ、と長は立ちあがって言った。その顔はもう安心しきったただの祖父の顔だった。

「いっそ、殺して生かしてやるほどの気持ちで賭けをするくらいでないと、あの術からは逃れられないと思ったのだ。

それが、あれの祖父として正しかったか間違っていたか、もう今はわからんな」


長は佐塗を呼ぶと共に残りの者と出て行った。


後に残った喬珂と羽陽は、納得のできない顔のままではあったが、落ち着きを取り戻していた。

本当に、怖かったのだ、自分たちは。蒼を無事に連れて帰れなかったら、とそればかりが道中で頭をよぎった。

その先の自分を想像するのが怖かったのだ。幼いころから見てきたあの娘を失うなど、まったく考えられなかった。




「とりあえず」




羽陽は俯いた喬珂の肩を叩いて笑った。

「休もうぜ、くたくただ、そうだろう」

弱弱しく笑った羽陽の腕を取って立ち上がり、喬珂もやっと表情を緩めた。

「ああ」








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